哲学塾授業

哲学塾授業  難解書物の読み解き方
哲学塾授業  難解書物の読み解き方中島 義道

講談社 2012-04-26
売り上げランキング : 95847


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
最近立て続けに中島先生の「哲学塾」を読んでます。中島義道は『ぐれる!』に見られるような不良中年ですが、やはり正統カント哲学者でもある。哲学の解説をする「哲学学者」ではなく、「何が本当であるのか」を本気で考える哲学者。哲学をする人です。
たいていの人間は哲学なんてせずに生きていけるし、手を出したところで何も面白くないんでしょうけど、中には哲学をしないと生きていけないタイプの人間もいます。そういう病気です。この病気の人が生きていくには、哲学をしないといけません。しなかったら死んでしまう。哲学すれば治るかといえば、治ることはありません。ただ生きていけるだけです。そして、羨ましいくらいにその姿は充実している。食べたりセックスしたりは、人間に生まれなくても別の動物でも出来ることですが、哲学だけは人間にしかできない。人間に生まれてしまって、しかも頭で考えることを享受してしまうと、この病いに罹ります。哲学塾は、そうした患者さんたちのクリニックです。
この本は、その診察風景です。過去の哲学者の本を読む読書会のふりをしてますが、これは薬ですね。哲学書は、過去の大病人が自分の病いのために書いた「処方箋」です。ロック、カント、ベルクソンニーチェキルケゴールサルトル。この本で取り上げられているのは、この6人。本の一段落ずつを丁寧に読み解いていく。解説書ではありません。生徒が文意を汲み取れないとき、中島先生は、その生徒がどういう風に読み解けずにいるかを見て取って、自力で読めるようになるまで追及の手を緩めません。
実際、何が書いてあるのか分からない、直訳調の原文が提示されます。とても回りくどく見えます。でも、中島先生が着眼点を示し質問を繰り返していくと、ベルクソンならベルクソンの苦しみが見えてきます。のたうち回っています。自分から出てきた言葉に驚愕し、同意し、反論し、さらに深めようとする。そういう苦しみが見えてくると、不思議なもので、とても大事なことを描き出そうとしてるのだと分かります。「私にも同じ苦しみがある」と思い至る。
どの哲学者も読めるようになるわけではなりません。やはり、自分と同じ病いを持っている人の文章だと、すんなり心に落ちる。サルトルの『存在と無』は学生時代読みましたが、チンプンカンプンでした。でも、中島先生のこの授業で少し見えた。サルトルはずっと、心理療法の面接中に僕自身が感じていることを論理に落とそうと苦闘してる。人は、どこにいても他者のいる空間の中に閉じ込められてしまう。一人でいるときでさえ、自分に罵声を浴びせている。そこに出口があるのかどうか。こんな賢い人でも苦しんでるんだと分かると、ホッとしますね。
あと、ニーチェもすっきりしました。ニーチェがバカみたいに読みやすいのは、彼の批判精神が自分自身を対象としてないからで、自分をも視野に入れ人間社会を罵ろうとするとキルケゴールのように複雑な文章になるのも分かった。そして、この二人の苦しみは、よく分かる。腹立たしいんですよね。自分自身が腹立たしい。何もかも全部ぶち壊したくなる。こうした毒々しい部分を脱色したような哲学書がベストセラーになっても、病人である人間には腹の足しにさえなりません。中島先生は、ちゃんと毒入りのまま「フグ」を平らげようとしてる。
反対に、ジョン・ロックは分かりませんでした。これはまた、別の病気の人らしい。それなのに読めてしまう中島先生は、やはり大病人。追いつけません。


ぐれる! (新潮新書)
ぐれる! (新潮新書)中島 義道

新潮社 2003-04-10
売り上げランキング : 101839


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
人生から降りるための指南書。「なに頑張ってるの? あんたのことなんて、誰も見てないよ」と、真実を告げてくれる。世間的な価値観を断捨離すれば、人生があまり残ってない事実だけが残る。何をやっても、どうせ死ねば無駄なこと。そう気づくと、結構楽になるんだよなあ。

方法としての動機づけ面接

方法としての動機づけ面接 (面接によって人と関わるすべての人のために)
方法としての動機づけ面接 (面接によって人と関わるすべての人のために)原井宏明

岩崎学術出版社 2012-05-10
売り上げランキング : 44035


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
ミラーの原著を読んだときはそれほど感動しなかったが、原井先生のこの本は素晴らしい。動機付け面接(MI)を使ってみたくなった。最先端のエビデンスである。
原井先生は、山上敏子先生に行動療法を習った第一人者。だから、行動療法に対する考え方も、ちょっと斜に構えていて柔軟に運用している。山上流とでも言うべきか。ところが、動機付け面接はその出自が認知行動療法とは違う。失敗したエビデンスから出て来てます。アルコール依存症患者への認知行動療法。その臨床研究をミラーが行ったとき、対照群として「何も指示しない面接」を置くわけですね。同じペースで面接には来るけれど、行動療法的治療を受けないグループ。予想上では当然、行動療法を受けてるグループの予後が良くなるはずだった。ところが実際には「何も指示しない面接」のほうが社会復帰しやすかったのです。しかも、それまでは「アルコール依存には断酒しかない」とされていたのに、このグループの人たちは飲酒量が適度に減って、仕事も続くしトラブルも起こさなくなる。行動療法の面目が丸つぶれになった結果でした。
「普通」の臨床研究だと、実験デザインを見直して、(よくあるように)対照群のほうをもっと無能な面接方法に変えるのでしょうけど、「効果があったんだから良いじゃないか」ということでミラーはこの面接法を中心に研究を始めます。何も指示しない面接。要するに、非指示療法。ロジャーズのクライエント中心療法と似てくる。これがすさまじいなあ。クライエント側の要因ではなく、セラピストとクライエントの関係性に焦点が移ってくる。
「動機付け」と訳されてるけど「付け」は間違いです。クライエントから「やる気」を引き出す。そういう意味。アドラーの「encourage」に似てるかな。もともと「幸せに暮らしたい」という想いをクライエントは持っている。それに気づいてもらえば、自分で変わります。自分で変わるから、自信になるし、何のためにそうしてるかの自覚もある。ロジャーズみたいな「自己治癒力」という、余計な概念が入ってこない。理論がスッキリしてます。そして、面接の手続きもハッキリしてる。しかも「測定」も出来ます。関係性を5つの次元で測る。喚起・協力・自律・方向付け・共感。予後を予測できる因子がこの5つ。これもロジャーズの三原則に似てます。そして、ちゃんと五件法で測るための目安が定められている。面白い。この5次元をセラピストの側から調合していく方法論も組み立てられている。さすが、行動療法家。
ただ、実践例として原井先生が自分のケースを挙げて、質問の組み立て方の解説を入れてるんだけど、原井先生、腹黒い。洗浄強迫の人にウンチを触らせようとしてます。ノン・ディレクティブなのに、無茶させてる。しかも自発的に「触ります」と言わせてるから、悪どい新興宗教の勧誘かと思いました。例があまりでしょう。でも、今までのロジャリアンが「何でも受容」だと勘違いしてたところを、この例は特異的に差別化してます。受容するのは、クライエントの健康な部分。「症状がしゃべってる部分」まで受容してたら、結局はクライエントを援助することにならない。「望んでないことを症状に言わされてる」とセラピストが感じ取れるかどうか。ここあたり、ニワカだと失敗しやすいポイントですね。

科学の剣 哲学の魔法

科学の剣 哲学の魔法―対談 構造主義科学論から構造構成主義への継承
科学の剣 哲学の魔法―対談 構造主義科学論から構造構成主義への継承池田 清彦 西條 剛央

北大路書房 2006-03
売り上げランキング : 43773


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
人間の形質が遺伝子で決まるとお思いですか。もちろん、そんな素朴な生物学はゲノム研究によって否定されました。メンデルの遺伝学は、実験助手たちが「先生がお喜びになるだろう」という理由で集めた、都合の良いデータだったというのが今の定説です。騙されてましたね。でも、そういう事実が明らかになる前から、日本には「進化論や遺伝子論はウソだよ」と言ってた生物学者がいました。池田清彦。この人の文章、知的にワクワクして面白いです。
その池田先生が、発達心理学の新鋭・西條剛央先生と対談。西條先生は、もろ池田理論の信奉者ですから、舞い上がってます。池田先生も煽てられてノリがいいです。「人生は短いのに、働くなんてムダなことだ」と言ってのける池田先生も、ついつい調子に乗って手の内を曝け出してます。構造構成主義。それを知りたいなら、この本から入るのがベスト。
もちろん、今の世界に「客観」があると思ってる科学者はいません。虹の色が文化によって四色だったり八色だったりするように、人間の見る世界は、その人の持っている「言語」に制約されます。古典科学の「オッカムの剃刀」にしても、それは神父オッカムくんの「神が複雑な世界を作られるはずがない」という信仰です。世の中、いろいろ複雑なのにねえ。「真実は一つ」。コナンくんもクリスチャンなのかな。客観的真実の実在を保証できるのは「神」だけ。人間は知性を使ってそれに近づくしかない。そう長い間ヨーロッパの人たちは思い、「科学」を構築してきた。でもそれは、ヨーロッパの言語に縛られた認識の「科学」に過ぎないことが明らかになってきた。だとしたら、これからの時代、どう「科学」は成立させれば良いのだろうか。
言語の文法を司る「ラング」が個人的な産物だという、池田先生の立脚点が良いですね。「文法というものが客観的に存在する」。これは、学校教育による誤解。そんなもの、あるわけないよ。ラカンも言ってたなあ。子どもが発達の過程で「文法」を教わる機会はない。うん、ない。でも、「文法」に沿った言語を操っている。自分の経験から自分の「文法」を作り上げている。とても個人的で恣意的。そして、それは文化の中で伝播されるように見える。これをどう記述するかがポイント。ここに構造主義的な考え方を応用していくわけです。「客観」は主観的に構成され、それが「他者」に出会うことで方向付けられていく。
西條先生の「関心相関性」という切り口も良いな。世界は、主体の関心によって切り取られています。「心理学の基礎として統計学を習って良かったです。どんなデータも、実験者の関心次第で変わってくると分かりましたから。人の論文を疑いながら読めるようになりました」。これもそうだな。実験心理学をやってるなら知ってることだけど、自分の仮説に合ったデータ以外は論文に載せないんだよね。そういうのは大量に出来ちゃうし、それ自体からは何も出てこないので、バッサリ切り落とす。でも、そのデータに意味があるかどうかは、その実験者の「関心」でしかない。
たいていの科学の発展は「失敗した実験」から生まれる。天才と呼ばれる人たちは、まあ、マゾだ。バカ正直だ。池田先生も書いてるけど「本当に大事な研究」では、すぐに結果は出ない。文科省も予算を付けない。研究を続けようと思えば「私の仮説が正しいと証明された」と言える論文を量産するしかないし、それは「失敗した実験」を黙殺するしかない。だけど、「失敗」のないところにパラダイムの変化は起こらない。東大からノーベル賞が出ない理由だな。次に日本からノーベル賞が出るなら、私学、それもこの二人のいる早稲田大学じゃないかって気がしてきました。心理学から出るかな。まあ、出てきても日本の学会なら潰しちゃうかもね。

エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究

エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究―クライアントにとって何が最も役に立つのか
エビデンスにもとづくカウンセリング効果の研究―クライアントにとって何が最も役に立つのかミック クーパー 清水 幹夫

岩崎学術出版社 2012-02-01
売り上げランキング : 77897


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
カウンセリングは、本当に役に立つのだろうか。2008年に出されたエビデンス研究の集大成。結局1975年にマーティン・セリグマンが出した結論から変わってない。「どの技法も、医師や神父が行うアドバイスより効果があるが、心理療法間の差異はほとんどない」。だいたいが7割の改善率になる。精神分析だろうが、行動療法だろうが、トータルすると似たようなもの。その代わり、同じ流派内でも、8割超えるカウンセラーと3割に満たないカウンセラーが必ずいる。じゃあ、その違いは何か。「うまいセラピー」の共通因子を探し求めるのが、この30年間の動向だった。世界のね。日本から発信された論文が一本も取り上げられていない。取り残されてるねえ。
で、この本の中で共通因子が並べられ、それを扱う研究が挙げられていく。たどり着くのは、はい、「普通のカウンセリング」です。傾聴し共感して、良好なラポールを築くこと。これはすごいなあ。ロジャーズがウィスコンシン大学病院で調査した、最初の研究と同じ結論になってます。ロジャーズ、すごいよ。「あの三原則は、ボールをよく見てシャープにバットを振ればヒットになる、と言ってるのと同じやし」と河合先生も言ってたなあ。正しいけど、それをどうすれば実行できるかは各セラピストに任される。任されるから、難しいんだよね。
この本の良いところは、各因子を具体的に定義していくところ。定義しないと調査できないから当り前。たとえば、自己開示。した方が良いか、しない方が良いか。その調査を進めていくと、その場でのセラピストの気持ちを伝える「関与」と、セラピストの過去の体験を伝える「開示」は別物だと見えてくる。そして、予後の良いカウンセリングでは「自己関与」が、一時間内に三回、時間にして15秒間行われていると分かる。おお、そうなのか。「聞いていて、私も淋しく思いました」みたいな自己関与。なるほど、やってるやってる。あれを一分間以上やってたら、うるさいだけだもんなあ。簡潔に。でも、気持ちは伝えていく。
あと、転移分析の正しい使い方とか、強迫症状には逆説処方が効果的とか、参考になる研究が載ってます。認知療法エビデンスを追求するあまり、自分たちの理論通りにはセラピーが進まないことを発見してしまう下りとか、ちょっと笑えた。もちろん、そのことで理論がさらに練り上げられてるんだけど。いずれも、三原則を具体化するために、それぞれ技法という形で磨いてきてるんだということが分かる。それは「関係性」に重点を置くこと。しかも治療関係は、たいてい一度は悪化し、そのあと修復される経過を取るものらしい。個人の無意識を扱うのでも、条件付けをするのでもない。「うまいセラピー」はそれ自体、対人関係の成熟を援助している。
そうそう、90%のカウンセラーが「自分は平均よりも上手いほうである」と答えてるんだって。どんだけ自分に甘いんだろうね。この本は、独りよがりなカウンセリングをしないためにも、読んでおいた方がいいよ。原書がイギリスでの出版なので、軽く認知分析療法(CAT)に触れられていて、ちょっと気になった。そろそろ日本に紹介してくれる人、出てこないかな。

解決が問題である

解決が問題である―MRIブリーフセラピー・センターセレクション
解決が問題である―MRIブリーフセラピー・センターセレクションリチャード フィッシュ

金剛出版 2011-11
売り上げランキング : 328058


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
心理学には「構造主義的心理学」と呼べる一群がある。人類学者のレヴィ=ストロースが取った手法に影響を受けている心理学。価値観を持ち込まずに異文化を観察し、そこにあるパターンを浮き上がらせることで構造分析をする。フランスでは、乳幼児の観察に応用したピアジェがそうだし、精神分析を再構築したラカンがそれに当たる。そしてアメリカでは、グレゴリー・ベイトソン。一般にバラバラに理解されている三者だが、構造主義が現れなかったら、彼らの業績もなかっただろう。
そしてこの本は、ベイトソンの許で人類学者として働き、いつしかシステム療法家として名を馳せたジョン・ウィークランドの論文集である。値段は高いが価値がある。「ブリーフ」と呼ばれながら、日本にあるような脳天気なブリーフではない。いやあ、システム療法への格付けが僕の中で三段は上がったね。文化人類学の学識を十二分に応用している。それも明晰な考察が、ここかしこに輝いている。ハーフミラー越しに面接場面を観察し、そこに起こっている相互作用を分析していく。これは「人類学者の目」でなければ出来ない。
ウィークランドの目を通して、我々が一般的に良かれと思っている解決策が、実は問題の再生産でしかなかったことが明らかになる。ADHDと診断されリタリンが処方されている青年の家族に「どれもこれも、障害のせいでしょうか」と疑問を持たせ、両親が行っていた治療的介入を減らすにつれ、青年が落ち着きを取り戻していく。もちろんADHD的な部分はあるよ。でも、全部じゃない。全部を「障害」とされる以上の不幸はない。それは統合失調症であれ、うつ病であれ、同じこと。「その方法は真っ当すぎて、うまく行かなかったでしょう」とリフレームし、相互作用を一旦白紙に戻す。その手際の良さ。7回の面接で7割解消というのも当然。それまで思ってもみなかった視点を巧みに組み込んでいるのだから。そういう意味でブリーフ・セラピーは「介入」ではないな。「解釈」なのだと思う。問題への向き合い方をリセットしたところで、大方の仕事は済んでいる。
あと、うまく行かなかった事例もきちんと取り上げてるところがフェアだ。アルコール依存に陥り、生理も止まってしまった女性の症例。どんな介入を講じても、偶発的な出来事が起こり、その対応策が無効化される。あるある。そういう面接って、ときに出くわすときがある。何か人間の意志を超えた力が働いてるんだよね。結局、生理が止まっていたのは妊娠してたからで、子供が出来たことで夫婦の力動が変わり、女性も幸せになる。もうお酒に頼る必要がなくなる。オチが分かればセラピストはピエロでしかないが、そういう状況をちゃんと一緒に喜んでるのがウィークランドの人柄かな。治すまでもなかった。
やはり、人類学者だからこのセラピーが生まれた。心理学者では無理だったね。言い訳ばかりするから。訳してくれた小森先生に感謝したくなる一冊でした。

マイクロカウンセリング―”学ぶ‐使う‐教える”技法の統合

マイクロカウンセリング―"学ぶ‐使う‐教える"技法の統合:その理論と実際
マイクロカウンセリング―アレン・E・アイビイ 福原 真知子

川島書店 1985-12
売り上げランキング : 284602


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
カウンセリングの古典。アイビーのマイクロカウンセリングです。意外と若い人たちが知らないので驚いた。カウンセリングと言えば、まずカーカフのヘルピングかアイビーのマイクロ。これを骨格に、それぞれ諸派の技法で肉付けしていく。それが修得の近道だと思うんだけどな。
マイクロは、もともとカウンセラー養成の基礎となることを目指した理論です。1970年代に、当時の精神分析・行動療法・クライエント中心療法などの諸派を網羅し、共通要素を抜き出して一つに体系にまとめ上げている。その後展開した自己心理学やシステム療法の知見が抜けてる古臭さを感じますが、それでもカウンセリングの本質をつかむために外せない心理療法です。ところが、今の心理学の教科書では出てこない。出て来ても、技法のピラミッドの絵が解説してあるだけ。これじゃあ、出来損ないの折衷派にしか見えません。結局「なんたら派」の布教活動に忙しくて、大学の先生は「カウンセリング」をしてないんでしょうね。専門性より先に、普遍性のほうを学生に教えればいいのに。だから、即戦力にならないのが現場にやってくるんだよな。
アイビーの慧眼は「シンプル・ストラクチャー」だと思います。どの心理療法も、構造という観点から見れば、一つの構造しか持っていない。ただ強調点が違い、そのため特化してる技法に差異があるだけ。その基本となる構造を見極めれば、自分が今何をしているか、把握しやすい。
では、その「構造」とは何か。たぶん、アイビーの中でカウンセリングは、「どうすればいいですか」というクライエントの問いに答える仕事なんですよね。でもそれは、カウンセラーが答えることではない。「どうすればいいか」という、問いが出てくるクライエントの状況に着目しています。行動を問うのは、「どうなればいいか」の目標が見えていないから。目標が見えてないのは、「何が問題なのか」の定義が不明瞭だから。問題が不明瞭なのは、「いま何が起こってるのか」の状況から目を逸らしてるから。だからカウンセリングは、情報収集→問題定義→目標設定→課題との対決→般化の順に進む。まるでビジネス書のように明解です。
ただ、この作業はクライエントにとってしんどい。そのしんどさを分かち持つ覚悟がカウンセラーにも問われます。そこがPAS。Positive Assets Search。クライエントの持っている「肯定的な資質」を発見していく。この人ならではの「良さ」を見つけるごとに、クライエントは一歩前に進むことが出来る。もっと自分の「良さ」を知りたいという願望がクライエントに生まれなければ、そもそも目標設定なんて無理なのです。目標設定が出来るのは、その未来に「知らなかった自分の良さ」と出会える期待があるからです。クライエントの「出来ないところ」を数え上げても、何も前進しません。これ、「Assets」が良いんですよ。「いま出来てること」ではない。心理検査では測れないもの。「まだ開花していない資質」を見つけ出す目が、カウンセラーの「資質」だということ。そこにアイビーの哲学がある。そして、それは本当のことです。

赤ちゃんにおむつはいらない

赤ちゃんにおむつはいらない
赤ちゃんにおむつはいらない三砂 ちづる

勁草書房 2009-08-29
売り上げランキング : 74615


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
津田塾大学三砂ちづる先生。女性は、本来どうあると女性として生きやすいかを研究している、本当の意味でのフェミニスト。理念じゃなく、実際の生活に密着している。その中で「育児」をテーマにしたのが本書。古老に尋ねる。東南アジアに調査にいく。保育園で観察する。どこまでも「実際」に密着するスタイル。調査を積み重ねた報告が並べられることで、本書はやたら厚い。読むのがしんどかった。でも、今までの専門家の提言が、理論や実験に基づいているため、どれだけ現状と懸け離れたものであるかが浮き彫りにされ、導かれる結論は興味深く有益なものです。
今の子どもたちは三歳過ぎまでオムツをしている。それが「常識」とされてます。でも、時代を遡ると、二歳くらいが「オムツの外しどき」とされる育児書が散見する。さらに戦前だと、たいていの子どもは一歳を過ぎ、歩き始めれば自分からトイレに行けた。この違いはなんだろう? 発達心理学者は「今」のデータを集め、平均値を取り、それが太古の昔から不変であるかのように語る。ウソなんです。「今」が異常だから。どうやら、アメリカの育児理論を輸入したためらしい。トイレット・トレーニング。トレーニングだから、子どもにストレスになる。充分な括約筋の成長を待って、それに合わせ子どもを指導していくべきだ、と。そう専門家は言います。それまでの日本人は「トレーニング」だとは思ってなかった。便意があるから、おまるに座る。それが自然なことと思っていた。「科学的にそれには根拠はありません」と専門家は否定し、アメリカから紙オムツが輸入され、使われるようになる。排泄しても、吸収が良くサラッと感がある紙オムツ。赤ちゃんにとって快適。ママも育児が大助かり。おかげで、子どもは自分の排泄をコントロール出来なくなる。母親も、自分の子の排泄が読めない。サラッと感があるから。漏らしてるのにサラッとしてる。でも不自然で、不快感は残る。自分をコントロール出来ているという自信が育たず、垂れ流してるから括約筋も鍛えられない。すると、子どもは落ち着きをなくし、ウロウロと多動になるそうです。可哀そうなことしてるなあ。
ADHDにしても、学習障害にしても、そもそも基礎となる運動能力が育っていない。オムツをして走り回るのは大変だからね。行動が制限される。廃用性退行。使われない機能は、段々と使えなくなっていく。ほら、たいていの日本人は英語が喋れないじゃないですか。それを「英語学習障害」と呼ぶかどうか。日常で英語を使う体験がないんだから、使えないのは当たり前。そんな「あなた」は「障害者」なのか。まあ、「英語脳」でないのは確かだな。
今の子どもたちは、紙オムツにくるまれ、自分の中の自然現象を制御する体験がスポイルされる。脳のシナプスが伸びる時期に、なんて貧弱な状況を与えてるんだろう。そして土台が育っていないまま、就学期を迎え「学習」が始まる。授業についていけない子どもは脱落していく。「専門家」に従ったから起こる悲劇。しかも診断名も用意されている。そうやって、どんどんアメリカのように崩壊してくんだろうな。「アメリカ」を目指してる限り、当然の結末だけどね。