思春期の心の臨床

思春期の心の臨床―面接の基本とすすめ方
思春期の心の臨床―面接の基本とすすめ方青木 省三

金剛出版 2011-11
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川崎医科大学の青木省三先生が、2001年に書いた本に加筆修正して増補版として去年末に出したもの。基本姿勢は変わりませんが、やはりこの10年は大きな変化があったのかな。ますます力の抜けた、良い臨床を言葉にされてます。精神科の先生の利点は、確かにそこに日々の臨床の匂いがあることですね。自分の体験に根ざしている。
途中で30年越しの事例が書かれてますが、なぜ30年も掛かっているのかを自分の未熟さに絡め考察している。謙虚な方だと思います。若い頃は、どうしても自分の力で治そうとする。「治療者」という言葉に呪縛されるんですよね。「治らない患者さん」は、そういう治療者の傲慢さを突いてくる。「お前もただの人間じゃないか」という当たり前のところを直面させてくる。この事実から逃げてるうちは半人前です。お金を貰うことさえおこがましい。「ただの人間」という事実を受け入れれば、治療者は強くなります。「治すこと」が目標ではなくなるから。「人生を楽しく、楽に過ごしていけること」が目標になる。そうすると、器質的に障害がある患者さんでも、病院に来てくれない患者さんでも、人間に出来ることがある。そのための心得が載っている本です。
思春期外来の先駆者らしく、症状別に心得が並べられています。不登校の場合や境界例解離性障害強迫性障害、自己破壊行動や広汎性発達障害など。来てくれた子どもに合わせ、何を気をつけるべきか、どういうアプローチがどういう結果を生むかが、懇切丁寧に書いてあります。どれも参考になりますね。特に発達障害を抱える子が、前思春期に入ると人の目を気にして引きこもりがちになることがある。これを「他者の視点に立つ力が付いて来たから」と捉えるのは同感。ところが今の医療だと「社会不安障害」扱いして抗不安薬を出すんだよなあ。その薬、何の役に立つんだろう?
出来るだけ「病人」にしないようにする、という基本スタンスも好きです。昨今「病者の役割」とか言って、クライエントを「病人」にしてしまうことが治療的なアプローチのように言われてますが、それは薬屋の陰謀ですね。むろん、働きすぎる人には休息を取ってもらうメリットがありますが、そうでない場合はデメリットが大きい。薬を与えれば与えた分、「あなたは自分では治せない」というメタ・メッセージを与えてしまう。その自覚がない医者が多すぎるから、青木先生のような方は希少な存在です。「うつ状態」で受診して、すぐSSRIを出す医者に遭遇したら、病院換えたほうが良いですよ。それは、診察時間をサボって、通院回数を増やさせる方法なんだから。
あと「たまり場作り」の話も良かったです。昔の子どもには「たまり場」がありました。青木先生はお好み焼き屋を挙げてるけど、まあ、僕にはたこ焼き屋でしたね。小学生や中学生が学校帰りに寄り道してたむろするところ。四、五人でお金を出し合ってたこ焼きを買って、みんなで分けて食べる。それだけで「仲間」という感覚がじわりと口に広がって行く。そういう味覚と触覚と共同体感覚とが混ざり合った空間が、お節介なPTAのおかげで今では根絶されました。大人の目が届かない子どもたちだけの空間って、人間形成には大事ですよ。それが社会性の基盤なのに、なんでか今の子どもたちには無いんですよね。スポーツクラブに学習塾。どこに行っても大人の監視の目が光っている。そんなところで社会性が育つわけ無いのに。子どもが「子供扱い」され、大人になり損なってしまう。
というわけで、思春期外来に「たまり場」を作る話、良かったです。治療者の知らないところで、子どもたちは治っていく。そういうプロセスに青木先生が添わせてもらいながら、いつも驚いてばかりいる感じが、幸せな臨床を築き上げてこられてるなあ、と思いました。

よいお年を

うーん、ブログって難しい。
本は読んでるんですけど、人に勧めたいほどの本がない。臨床心理学の分野には専門家がいないのかなあ。新しい発見がない。自分の信念をだらだら書いてる本が目立つ。統計使うと、使い方を間違ってる。ほんと、情けない。
その中に、ときどき素敵な本があるんですよね。それとの巡り合いは楽しい。来年も、目が覚めるような読書ができるだろうか。皆さんにも、素敵な出会いがありますように。

ブリーフセラピー講義

ブリーフセラピー講義―太陽の法則が照らすクライアントの「輝く側面」
ブリーフセラピー講義―太陽の法則が照らすクライアントの「輝く側面」若島 孔文

金剛出版 2011-11
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若島先生、東北のほう、大変そうですね。ご無理なされないように。
さて、システム療法の土着化というか、日本に根付かせるためには、まず自分にとって使いやすい道具にカスタマイズしないといけない。そのために若島先生が持ち出してるのは柳生新陰流。なかなか良いセンスと思います。日本人って俳句好きだな、と思う。本質を捉えて短い言葉にするのが好き。仏教の巨大な体系を「南無阿弥陀仏」で済ませたり、ロジャーズの複雑なストランズ理論を「受容と共感」で収めたりする。換骨奪胎。元のものとは別物になっても、それに効力があるならそれで良い。分かる人には分かる。分からない人は、たとえ原典を網羅しても分からない。だから、短くて良いのです。結局は、その言葉を吐いた人間が自らの背骨とし、現実と向き合うための武器なのだから。
それで、若島先生の俳句は「太陽の法則」。本文中に詳しい説明はありませんし、あまり使ってないんですけど「太陽の法則」。要はMRI派の「Do more / Do different」の二刀流を「Do moreだけで上等」と言い切るところにあります。Do differentのほう。つまり、今までやってなかったことをやらせようというのは、システム療法の原理からすると不自然。アドバイスされたことは、次の週までに守られている確率は低い。「あ、忘れてました」とか「そんなことで良くなるハズがないです」と言われる。それは、ホメオスタシス(恒常性)いう健康な部分なので、これを壊しても仕方ないのです。
だから、Do moreを使う。ただ、そのままでは現状と変わらないから、その行為の「輝く側面」を指摘し「今まで通りに続けるように」と指示する。リフレーミングと症状処方のコンビネーションになりますね。前に広島児相の岡田先生の本を取り上げましたが、そこにあった3つの治療論のうちの一つ。「クライエントの行っている対処法は肯定し、その対処法を裏付ける仮説は変えてしまう」という戦略。でも、岡田先生みたいに3つも要らない。一つあれば十分というのが若島先生の立場。これは臨床でブレないための戦略だな。
不登校の生徒のことで相談に来た先生が、その家の家庭事情を原因と考えているとき、「不登校の原因は学校ですよ。家が原因なら、学校に逃げてくるでしょ?」と言い切る。ここあたりが良い。もちろん、学校が原因なのではありません。「家庭が原因」と考えてる先生の仮説を崩してるわけです。その仮説だと、学校側には打つ手がなくなる。自分との関わりで、何を変えれば良いか。そう考えるところにしか解決の糸口はありません。そして、現在行ってる家庭訪問を「お母さんにエネルギーを与えるために行っている」と意味付けし直す。この介入で不登校は解消する。だって、そのお母さんが「学校から責められてるのではない」と実感し、協力的になってくれるから。三手先を読んでいる。
とはいえ、「さいごに」に書かれた基本原理が二つあるのは変ですね。それじゃ、二刀流のままじゃないでしょうか。僕なら「変化に気づけば、変化が生じる」という一句にするんだけど。ラカンの事後性のことだね。

ピアジェ入門

ピアジェ入門 (国土社の教育選書)
ピアジェ入門 (国土社の教育選書)波多野 完治

国土社 1986-12
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これ、どこも「入門」じゃないよー。タイトルに騙された。そして、騙されて良かった。日本にピアジェを紹介したお茶の水大学長、波多野完治先生。というか大学長だったのは1971年か。はっはっは、この本も1986年初版だ。すげーぜ。こんな面白いピアジェは初めてだ。
1980年にピアジェが亡くなり、それを受け、業績を分かりやすくまとめてくれている。でも、感覚運動期とか形式的操作期とかじゃないよ。ピアジェを「そんな発達心理学者」と思い込むのは、フロイトを「性欲と夢占いの人」と呼ぶくらい滑稽なこと。ピアジェがフロイディアンで精神分析学会に論文を提出してたことや、道徳性や情意の発達の研究もしていたこと。14歳で、軟体動物について学術雑誌に載るほどの新進気鋭な生物学者だったことなど、トリビアがいっぱい入ってます。波多野先生の「世界中でピアジェが分かってるのは私だけ」みたいな自画自賛も愛嬌があり、なかなか憎めない。東大を「一高」と呼ぶ世代には勝てないわ。フランス語もロシア語も原著で読んで、世界の動向を追いかけてるものなあ。こういう大学人、最近いないでしょ?
さて、この本を読みながら思ったのは「学習理論」と「発達理論」の違い。「学習」という概念は英語圏の産物です。ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」に始まるイギリス経験主義。これがアメリカに渡り、行動主義心理学に展開していく。外界から教えられることで、人は新しい行動ができるようになる。何も教えなければ、何も変わっていかないという考え方です。人間を工業製品のように考えている。
それに対し、「発達」はカントに端を発してます。それがヘーゲル弁証法になり、ベルクソンの創造的進化になる。もともと生物には、自ら発展しようとする力がある。外界に働きかけ、それが抵抗に会うことで不均衡な状態が生じ、その矛盾が止揚されることで新しい知性を獲得する。そういう、自ら変化する力への信用が「発達理論」です。どの発達段階であっても、それはシステムとして完全形であり、何も劣ったところはない。それを外部からの力でたわめてしまい、元あった創造性までも殺して「平凡な人間」にしてしまうなら「教育」の失敗だ、というのがピアジェの根幹思想です。ルソーが「エミール」を書いた頃から、大陸合理論は一貫しています。さすが麦と羊で暮らしてる人たち。
この「学習」と「発達」。全然方向性が違う。サルとネコくらい違う。人間はコピーでしかないか、それともオリジナルなのか。けれど、日本人はこの軋轢を知らずに、両方を吸収してしまいます。ここが世界に対し、日本のアドバンテージのあるところ。「教育」という言葉がそうですね。「教える」と「育てる」。それぞれ学習と発達を指している。良い言葉です。この二つのバランスに「教育」がある。このことが分かっているなら、欧米の教育論のいいとこ取りができる。分かってないなら、「発達障害」の治療論に学習理論を持ち出すマヌケな羽目になる。DSMの「発達障害」は「コミュニケーションの学習障害」でしかないもん。アメリカ人は全然「発達」が分かってない。
翻って臨床心理学は、教育のうち「育てる」に特化したもの。だから、心理療法は「何かを教える」というスタンスにならない。土台が育ってきてからアドバイスすることはあるにしても、それまでは「育てる」に徹する。けれど臨床心理学って、精神分析や精神医学とごっちゃにされてるんだよなあ。全然違うよ。河合先生が、ただの数学教師で心理学を修めてないのに、自分を標準にした資格団体を作っちゃったせいだな。臨床心理学は「心理学」を基礎におくのが当然。そうなると、ピアジェの考察をどう現場に生かすか論じてこそ「心理学」なんだよ。

想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心

想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心
想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心松沢 哲郎

岩波書店 2011-02-26
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京都大学霊長類研究所松沢哲郎所長が還暦を迎え、遺書がわりに後世に残す名著。チンパンジーのアイちゃんに手話を教え、その息子のアユムくんと親子同然の暮らしをし、さらにアフリカにまで行き、野生のチンパンジーたちと生活をともにした研究者。実践の人だから一言一句に無駄がない。端から端まで独創性に溢れ、しかも読みやすいです。なにより、私たち人間と同じヒト科のチンパンジーたちへの愛に満ちている。「実験対象」なんて思ってないですね。「良き隣人」としてお付き合いしている。
セラピストとして読ませていただいても、参考になることが多い。第四章の「社会性」のところも、発達障害がこれだけ重要なテーマになっていながら、この松沢先生の功績に匹敵する研究は(九大の大神先生の糸島プロジェクトを除いて)ないように思う。それも統計学を使うのではなく、個の観察を緻密にすることで社会性発達のプロセスを読み取っている。日本で育てられているチンパンジーって数が多いわけじゃないし、不自然な年齢集団だから統計は使えない。仮説があり、検証があり、それらを意識しながら日々を過ごし、小さな気づきを積み上げていく。個別が普遍に至る研究って、こういうのを指すんだよなあ。臨床の事例研究も、ここまで心砕くのじゃないと、学問として恥だわ。
人とチンパンジーの違いが「想像力」に収斂していく著書ですが、途中、自閉症に話を絡めているのは少しステレオタイプかな、と思いました。社会に流布してる「偏見」のレベルですね。でも、松沢先生はチンパンジーを劣ってると思ってるわけじゃないし、心の理論仮説のプレマック先生を直接の恩師とする先生だから、単純な「自閉症の子は共感性が低い」という話ではありません。想像力は、人間が本来持つはずの適応力を放棄し、別の進化を辿り始める契機となったもの。トレードオフで獲得した能力なわけです。希望や絶望という、幻想の世界で人間は暮らしている。リアルを捨て、バーチャルに生きることを選んだのが人間という種族。その存在は不自然です。だから、自然を破壊することもできるし、知恵を使うことで自然と共存もできる。
でも人間のバーチャルさは、その限度を超えてしまったかも知れない。リアルさを失った。動物として息苦しい環境に自らを閉じ込めている。どの自閉症も、とは思わないけれど、再びリアルさに回帰しようとする傾向が人間に生まれつつあり、それが自閉症という形に現れてるのだとしたら、これは単純に「治療すれば済む話」ではない。


・・・実はアスペルガーもカナーも、第二次大戦中に「自閉症」を発見するんだよね。アスペルガーは、ナチスによって「浄化」されそうになっていた子供たちを守るために「この子たちは治療教育を受ければ治るんです」と言わざるを得なかった。そのために出てきた診断名なんだから、「社会の息苦しさ」と関連するのは、そもそもの初めから「当然」のことでした。

うつ病の行動活性化療法

うつ病の行動活性化療法: 新世代の認知行動療法によるブレイクスルー
うつ病の行動活性化療法: 新世代の認知行動療法によるブレイクスルークリストファー・R・マーテル ミッシェル・E・アディス ニール・S・ジェイコブソン 熊野宏昭

日本評論社 2011-07-01
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日本で「認知行動療法」として紹介されてる理論は1970年代のシロモノで、今は「第三世代」と呼ばれる新しい波がアメリカでは起こっています。立命大の武藤先生が精力的に訳してるACTやDBT、FAPといったあたりですね。去年から日本の精神科でも認知行動療法が保険点数になったため、付け焼刃のような認知療法が現場で使われてますが、それが40年遅れの内容だとすると、最終的には「認知行動療法は使い物にならない」という結論が待っているだけでしょう。そりゃあ、Windows7のご時世にWindows3.1を持ち出して「パソコンは使い物にならん」と嘆くくらい愚かです。バカどもですね。
さて、あとがきで熊野先生がまとめてくださってますが、この本の「行動活性化療法」を単独で評価するより、現代の認知行動療法を理解するための「ミッシング・リンク」と見るのが良いかもしれません。1990年代の理論です。ラディカル行動主義の匂いがプンプンするので、そのままは信じ難いところもありますけど、そのラディカル行動主義でさえ「文脈」に注目し始めたことがポイント。もはや、個人内の刺激ー反応関係では見ない。その人が生きている「状況」を考慮に入れ、ケース・フォーミュレーションする。つまり、見たてを立てる。精神分析で言えば、ミッチェルの関係分析やストロロウの間主観性心理学と同じ。「内界」ではない。「個人」を見てしまうと、見落とすものが大きい。「その人が生きているところ」を見ていこう。1990年代、アメリカの心理療法はそういう方向に進み出した。
一つは、システム療法を各流派が吸収し始めたのがあるかも知れません。もう一つは1980年にWHOが対人関係療法を「うつ病にもっとも効果がある治療法」と認めたことに関係ありそうです。サリヴァンの再評価が起こり、「個人」から「関係性」へのシフトが起こる。日本では中井先生がいて、早い時期からサリヴァンが評価されてたので「何を今更」な感じは否めないですけど。
そう考えると、行動療法の第三世代がいずれも「何の違和感もない」のは当たり前か。中井久夫先生や木村敏先生のような、あまり従来の理論に囚われない達人たちがいる日本では「関係性」が先に取り扱われてきたのだから。「あいだ」とか「場の理論」とか。確かに「個人」が確立していない日本だったから「あいだ」を扱うのが容易だったのかも知れない。でも、そのステレオタイプは怪しいなあ。「あいだ」が見えてなくて振り回される日本人ばかりだったから、それが見えてる先生方がすごい、とも言えるでしょ?
ともかく、アメリカでは「文脈」を考察対象にする心理療法が動き出している。そして日本では、それ以前の「個人」に逆戻りをし始めている。どうやら、現代はそういう状況らしい。まあ、どちらにしても、百年後の心理療法家から見れば「まだ心理とは何かが分かってなかった頃の、愚かなセラピーごっこ」って笑われちゃうんだろうだけどね。でも、その百年後に繋がるのはどちらの道かな? ・・・どちらでもない感じもするけど(「個人」を見ると、セラピストが「無関係」になってしまう。「文脈」を見ると、それはセラピスト個人の「お話」でしかない。このジレンマがあるからなあ。それを百年後はどう乗り越えているか)。

呪の思想

呪の思想 (平凡社ライブラリー)
呪の思想 (平凡社ライブラリー)白川 静 梅原 猛

平凡社 2011-04-09
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なるほど、このお二人は立命繋がりだったのか。漢字学の大家・白川先生と古代日本史の研究家・梅原先生。二人とも今はもういない。あれ? 梅原先生は生きてたっけ? 見掛けないから亡くなってるよなあ。まあ、もういない。二人の偉人の対談。このレベルの教養深い会話は、他の大学人では聞かれない。これだけ学識のあるホンモノはこれからも出て来ないのだろう。
山場が二つあって、一つは論語、もう一つが詩経です。前半はそれまでの助走ですね。白川先生の漢字解説。甲骨文字から研究してる人だから、語源の読み取り方が尋常じゃない。「道」という字を見て「これはね、もとは導という字なんですよ。夷狄の棲む地に侵略して行くとき、相手の捕虜の首を持って突き進んで行く。だから、ここに首を書いて、下の寸のところが手の形をしてます」みたいな話をされると、うぎゃーってなります。白川先生って漢字を見るたびに「白骨化した死体」や「乳房に入れ墨をした女性」の姿が見えるんですか? すごいです。でも象形文字の始まりがエログロなのはさもありなん。だって甲骨文字って祭祀器具の銅鐸とか描かれた呪文。呪いが掛かっています。「文字」なんかじゃない。部族の神々と通信するための手段。儀式とは本来そういう性格のものです。
だから論語に突入し、孔子の実像に迫るところも面白い。儒教の「儒」とは何かと言えば「需」。雨雲に向かって祭壇を作り、そこに生贄を捧げている象形文字。それに従事する人間が「儒」。呪術集団。孔子の言う「礼」とは呪術のことです。当時は金と権力が物をいう、封建主義的な時代。そこに太古の呪術を復活しようとした時代遅れな男。それが孔子様。彼が説こうとしたのは、上司におべっかを使う道徳なんかじゃない。宇宙の流れを読み取り、それを変えていく個人の力の話です。主君に徳がないと見れば、あっさり見捨てる。社会的な規則に縛られない。なにより「天」という上位概念を見据えていた。孔子の先進性は、その「天」を神格化せず、法則性のある原理と捉えてるところですね。その原理を掴みさえすれば、天候を左右できる。天候どころか、あらゆる自然現象をコントロールできる(あるいは予測して、対処できる)。科学的思考の萌芽があります。まあ、当時の中国人には理解されず、一生誰にも仕えず、ニートで終わるわけですけどね。時代が追いつかなかったのでしょう。いまだに論語規範意識とか経営術とかで読まれてるようじゃあ、孔子様も不幸です。
そして、詩経。もう全く知らない世界。でも白川先生にかかると、この中国の歌曲集が、生きている人間の慟哭や告発の言葉になります。そりゃあ、そうだ。ずっと戦争をしてた国だ。のんびり自然の美しさを詠んだりはしない。そこには、部族間の争いが反映し、自分たちが滅ぼした部族の霊を慰めるための仕掛けがある。その仕掛けが修辞法として詩の構成を複雑にし、豊かにしていく。詩経に採取されている漢詩は、もともとは声に出して歌われたもの。今あるロックやパンクの歌詞を、そのメロディを省いて記録したようなもの。じゃあ、どこで歌われたのか。どういう時代背景に基づいたメッセージ・ソングなのか。そういう観点から問い直せば、やっぱり「死体」の前なんだよね。勇敢に戦った敵兵を褒めたり、望み半ばに死んだ仲間をねぎらったり。そして、政権を握る為政者への呪いであったり。
この本、読み終わるとくらくらしますよ。学問が、重力に縛られないイマジネーションと地道な裏付け作業の産物だということを再確認できます。これだけの仕事をこなす教養人は、もう出て来ないよなあ。戦後の混乱期にたまたま立命大学が拾っただけで、この思考法は「行儀」が良くない。孔子様と同じで、時代の先を行っちゃってます。