はじめての選択理論

カウンセリングはアドバイスをするかしないか、という議論を聞いて「おかしいなあ」と思ったのでメモ書き。たぶん「非指示」ということを誤解してるのだと思う。「指示」と「アドバイス」は別物である。アドバイスは ad-vise であり、「〜に-目を向ける」が原義である。つまり、相談に来た人に対し「新しい視点」を得てもらうのがアドバイスだ。その人が気づいていなかったところ、あるいは見るのを避けていたところに目を向けてもらう。それはその人の中にある邪悪なものかもしれない。弱々しく情けない姿かもしれない。打ちひしがれた「小さな子ども」かもしれない。そうした何かに気づいてもらうとき、それは「アドバイス」なのである。逆に「指示」は direction。「方向付けること」なので、相手の行動を操作する。洗脳である。
そんな感じに、日本語の語感のまま心理療法の用語が解釈している場合があり、注意が必要だ。たとえば「行動療法」の「行動」は behavior。これは action ではない。behavior は「あり様」を指す。よく心身二元論というか、「こころ」と「からだ」を分ける心理学者がいて「脳からでは心のことは分からない」と言ったり、それに反対して「東洋では心身一如だ」とか訳の分からないことを言う人もいるが、何の話をしているのか考えたことがないのだろう。心身は視点の話である。自分の「こころ」は自分の内側から見たときに見えるもの。相手の「こころ」は相手に視点を移してから分かるもの。反対に、相手の「からだ」は自分から見たときに見えるもの。自分の「からだ」は外から見たときに分かるものである。「こころ」と「からだ」は同じものだ。どの視点から見ているか、が違うのである。分けられるものではない。


behavior は、そうした「こころ=からだ」を外から観察するときに見えるものを意味する。表情や声の震え、気持ちの揺れ。それらをひっくるめて behavior と言う。だから、行動療法は心理療法であり、アメリカで心理学部を卒業すれば、まず「行動療法家」と呼ばれる。
スキナーは behavior である言語行動を大きく分けて、タクトとマンドに分類した。タクトは「状況を叙述する言葉」であり、マンドは「相手に何かを要求する言葉」である。先の分類でいくと、アドバイスはタクトを使うが、指示はマンドを使うことになる。なぜ指示が不適切なのかは、マンドを使うとマンドを強化するからである。要求ばかりされてきた人間が学ぶのは、他人に要求することである。自分は何もしない。「指示」はメタレベルで「他人を操作すること」を強化する。結構物騒である。何より僕自身、人に操作などされたくない。だから使わない。
けれど、物事の新しい視点を示唆されるのは好きである。この世界が面白くなる。それは「知識」ではない。「視座」である。切り口とも言える。それがアドバイス。木片に仏像が埋まっているのではない。仏像が彫り出されることで、木片に仏が宿るのである。


人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論
人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論渡辺 奈都子

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1970年代にアメリカで流行った「現実療法」の普及本。やっと日本で咀嚼されるようになったと思ったら、とても気持ち悪い「自己啓発本」になってました。「他人を自分の思い通りに動かしたい」。そういう外的コントロールをする人がいて、その周りの人間をどんどん神経症に落とし込んでいく。そのコントロールを跳ね返すために相手に反撃すると、同じ外的コントロールの罠に落ち込み、負のスパイラルから抜け出せなくなる。蟻地獄のようにおぞましい「この世の姿」が現実療法の一大事だと僕は思ってます。「健康な人」が周囲に苦しみをばらまいている。
でも、それが「外的コントロールをやめましょう。みんなで上質世界に住みましょう」というお題目に落とされてしまうと宗教ですよ。これでセミナーをやれば儲かるでしょう。けれど、釣りバカ日誌のハマちゃんの「僕はあなたを幸せにするつもりはありません。でも、あなたが結婚してくれたら僕は幸せになります」というプロポーズを「これこそ、内的コントロールの素晴らしい言葉!」と呼ぶ感性が信じられません。十分、外的コントロールですよ。脅してます。しかも相手を「自分が幸せになるための道具」と見なしている。バカじゃないですか?
ただ「behavior」については正確な考察がされています。自動車の4つの車輪に喩えるのは、他のアプローチの場合でも応用性が高いと思いました。