科学的とはどういう意味か

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)
科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)森博嗣

幻冬舎 2011-06-29
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達磨が四人の弟子たちに禅宗を伝えた「皮肉骨髄」のエピソードがある。達磨が弟子たちに仏教の要所について尋ね、弟子たちはそれに答える。免許皆伝の最終試験である。まず道副が「言葉にならぬところを言葉にしていく」と答え、師である達磨は「お前には私の皮が伝わった」と印可する。「たとえ極楽浄土を見たとしても、そこに行こうとは思わない」と言う尼総持には「肉が伝わった」、「精神作用は現象であり、そこに魂など無い」と言う道育には「骨が伝わった」と達磨は微笑む。そして最後の慧可が黙って達磨に一礼したところ、「お前には髄が伝わっている」と認め、達磨は慧可に自分の袈裟を与えた。
道元の解説を待つまでもなく、この四人に優劣はない。いずれも達磨の正統後継者である。つまり、達磨自身の伝える正法を四つの側面から弟子たちが解説している。それは、どんなふうにだろう? 実はこれには「伝える」という教育の基本が語られているのではないだろうか。
たとえば、高校の数学が実生活で役立つかと言われれば、何の役にも立たないだろう。sin や cos の二乗やら三乗やら、高校を出てから使ったことがあるだろうか。一度もない。けれど「だから、学校での勉強は無意味だ」と結論づけるなら、浅はかである。学校での勉強は「皮」なのである。皮の下には「肉」がある。「肉」とは「分からないことを筋道だてて考えていく」という思考である。つまり「科学的に考える」ことだ。そして、その下には「骨」がある。「人生の困難を、考えながら乗り越えていく」という態度・覚悟。その態度がどこから来るかと言えば「髄」。「生きることは、うまく行っても行かなくても、結構楽しいものだ」という本質。それが染み付いている。そういう身体が得られる。これが森博嗣が言う「科学的」なのだと思う。


ただ、今の教育は高校生くらいで「理系/文系」に人を分けてしまう。これは本来、大学に入るための方便で過ぎない。でもこの方便は、「文系」とされた子どもに「自分は科学が苦手」という意識を植え付ける。単に大学だけの話ではなく、一生において「科学は苦手」という自己暗示に掛かってしまうのである。バカだねえ。結局、科学への拒否感が「自分で考える」という習慣を育てず、「人の顔色を見て一喜一憂する人生」を歩むことになる。不満はたらたら言うが、何事も人任せで、自分では問題と向き合っていかない。「文系」とはそういうことではなかったのに、いつの間にか「文系」がそういうタイプの集合体となっていく。
この本で面白かったのが、森先生が「理系のいいところ」を挙げればあげるほど「アスペルガー障害の人たち」になり、「文系の不便な面」を挙げるほど「群れたがる定型発達の人たち」を描いてしまうこと。別にそういう話をしてるわけではないのに、これって、社会で「文系」が多数派になってきたばかりに、「理系」を「発達障害」として排除し出したってことじゃないかと思えてきた。科学的に考えようとする芽が育ってきた子どもに「この子は一方的なコミュニケーションをする。空気が読めてない」とか言って、その芽が潰れてしまえば「定型発達」、その芽が頑固に残れば「発達障害」と分類してさ、そうすることで「文系社会」を守ろうとしている。お互い足の引っ張り合いをする社会を、なんで「正常」と思うんだろうねえ。優秀な「理系」を育てる力が社会からなくなり、「made in Japan」が優れた工業製品だった時代が終わる。でも、「心理学」って「文系」が来ちゃうから難しいねえ。自分で考えようと・・・。


話がずれた。皮肉骨髄である。何かを伝えるとしても「髄」だけ伝えることはできない。伝わるときは「皮肉骨髄」として伝わる。直接教えられるのは、そのうちの表面の部分、心理療法であれば「技法」のところ。「皮」のところしか教えることはできない。でも、教わる側には、その「皮」の下にある「肉」も考えてほしい。テクニックを伝授しているけれど、そのテクニックがどういう発想から出てくるのか。そういう発想が出てくるには、どういう態度を無意識裏に抱いているか。それにはどういう生き方を身につければいいか。
で、どういう生き方かを言葉で言ってみても意味がない。ただの押し付け。相手が実感として感じるようになるには、それこそ「皮」のところ、日々出てくる「悩み」からアクセスし、やがて肉となり骨髄へと浸透し、その人なりの生き方がつかめていけば良いんだけどね。