みんなのベイトソン

みんなのベイトソン
みんなのベイトソン野村 直樹 BJORN

金剛出版 2012-04-13
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ベイトソンの学習理論には四つの段階がある。そのことをしつこく何度も書いている本。説明が下手だからわかりにくい。そもそも小説仕立てなのがいただけない。言わんとすることは分かるよ。「学習」、つまり「新しいことを知ること」は一人ではできない。自分の中に探しても無駄で、必ずソクラテス風な対話の中で発見される。しかも、教える方と教わる方の役割があるように見えても、「学習」が起こるときには、どちらもが何かを知り、自分自身のあり様を変化させることになる。互いに「変容」が起こることをベントソンは「学習」と呼んでいるんだ、と言いたいんでしょ? 様々な対話状況を描いて「変容」の様子をメタレベルで示そうという意図は分かる。でも、そもそもの物語りが下手。ただの自作自演だから、話が膨らまないんだよ。


そういうわけで、読むのが苦痛だったけれど、さすがにベイトソンは面白い。「学習」のレベル0(ゼロ学習)は、学習の結果の状態。九九が言えたり、自転車が漕げたりするのはレベル0。出来ていることは、いくら繰り返しても「変容」にはならない。それに対し、新しいことに挑戦し、何かを身につけようとするのがレベル1。「ゼロ学習の学習」ということで、一般的な「学習」のことです。初めて坂道を自転車で登るとき、立ち漕ぎをしてみるとか蛇行するとか、いろいろ試行錯誤し、最適な方法を見つけようとする。そのプロセスが「レベル1」。
すると「レベル2」は、そのレベル1を見つける方法自体を模索すること。学習の仕方の学習。一段レベルが上がります。三年坂の登り方を身につけたなら、その「身につけ方」を分析して、七年坂の登り方を効率良くする。「般化」や「転移」と言われるもの。このレベル2が出来るようになれば「一を聞いて十を知る」のも容易。しかし、ここまでは誰もがやっていること。
ベイトソンはさらに人間には「レベル3」があるだろう、と考えている。レベル2自体を新しくし続ける方法。簡単に言えば「初心に帰る」ということです。身につけたものをご破算にして、いつも新鮮な気持ちで事態と向き合い、それと関わることを「学習」し続ける境地。芸事で言えば、型を身につけるのがレベル1で、新しい演目ごとに「あるべき演じ方」を編み出すのがレベル2。そして、その「型」に囚われず、打ち破り、自由な表現方法を生み出すのがレベル3。「学習」には、こうしたレベルの違いがある。


読んでいて思ったのが、カウンセリングと心理療法の違いです。この二つは混同されがちだけれど、狙いが違う。カウンセリングは、持ち込まれた問題を解決するのが目的です。ベイトソンを使うと、クライエントはレベル0の状態にいる。「不安を感じると、足がすくんで外に出れなくなる」といった「ゼロ学習」の状態にある。これを「不安を感じるとき、ハミングをして、少しだけリラックスする時間を取る」という別の対応に置き換えていく。新しいコーピングにチャレンジしてもらうから、これはレベル1。どういう場面ではどういうコーピングが一番落ち着きやすいか、いろいろ実験してもらう段になるとレベル2。こういうのは「カウンセリング」です。
心理療法はこうじゃないですね。心理療法は名前の通り「こころ」を扱います。自分が感じている不安は、いったいどんな気持ちなんだろう。自分の「こころ」と向き合っていく。描画やプレイを通してその気持ちを表現してもらったり、言葉にしてもらったりする。「不安」という言葉でひっくるめてしまったもの・実体化してしまったものを、初心から眺めなおす。そういう作業なわけです。つまりはレベル3。ロジャーズのストランズのように、自分の感情と向き合うにつれ、もともとの「問題」から距離が置けるようになる。「不安」であることと「外に出ること」は別のこと。「不安になってはダメだ」と自己否定している間は「不安」が募る。でも「不安は不安」と思えると「外に出ること」は出来る。そこあたりが心理療法のポイントになるかな。
しかし、うまい人はどちらもやってるから、分けること自体は意味がないなあ。でも、面接の中で自分が何をやっているのか道に迷ったときに、二分法を使うとコンパス代わりになるよ。で、進む方向が見えたなら、また初心に戻るべし。