「社会的うつ病」の治し方

「社会的うつ病」の治し方―人間関係をどう見直すか (新潮選書)
「社会的うつ病」の治し方―人間関係をどう見直すか (新潮選書)斎藤 環

新潮社 2011-03
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最近「ニュータイプ」だとか「未熟性」だとか、新しいタイプのうつ病が発表されて一見複雑になってきてるようだけど、本当はどうなんだろう? そういう論者の書く本はどこか「いまどきの若いもんは」的な論調なんだよなあ。「仕事はサボるくせに、遊びだと元気」というのが、この頃のうつ病の特徴。でもそれって、昔は無かったのかなあ。「ひきこもり」も「ニート」もそうだけど、挙げられている特徴は笠原先生が80年代に書いてた「退却神経症」となんら変わらない。違いとしたら、やたら長期化してしまうこと。そこあたり、どうなんだろう?
というわけで、環先生の本でも読んでみたらまとまるかと思ったけど、かえってまとまりませんでした。大筋は同意見です。DSMが導入されたことで病理発生に関する理論が衰退し、見掛けの機能性レベルで病名を付ける医者ばかりになった。診断が一元化したわけです。そうなると「うつ病」というゴミ箱にいろいろな病態が放り込まれる。「憂鬱さの程度の差」しか測れなくなる。それを「うつ病スペクトラム」と言ってもねぇ。発生機序を考えての診断ではないから、治療法はSSRIを処方するだけ。「セロトニンのせいですよ」くらいの説明しか医者が出来ない。で、単純に「セロトニンのせい」ではないから、SSRIを呑んだ患者が躁転し、やたら軽躁的な「新しいうつ病」が生まれてくる。根源への治療がなされてないから、いつまでも病院通い。それが現状。
で、発生機序を考えていけば良いんだけど、環先生、最近覚えたのかな、レジリアンスや対人関係療法コフート自己心理学が入り混じり、それぞれに教科書的な説明を付けて、それを深めるでなく、治療論のところでは「人薬」。自分のこれまでの「ひきこもり論」を再度繰り返してるだけ。あまりにお手軽過ぎます。
途中で、化石的な「マズロー欲求段階説」が出てきたところは「ほほう」と感心したんですよ。衣食足りた現代だからこそ、マズローを再評価できるかも知れない。社会性欲求が生まれてくるには、安全欲求・関係欲求・承認欲求の3つの段階が満たされていないといけない。だから治療方針は、この3つの欲求を順に実現していくことになる。ええ、そのとおりです。それがうつ病治療の肝であり、ひきこもり支援の要です。診断するとすれば「今この人は、どの段階の欲求で挫折してるか」。それが、心理療法的な「見立て」です。そこから、関係欲求に対して対人関係療法を、承認欲求に対しては自己心理学を絡めていくとか、あるいは安全・関係・承認のそれぞれに双子転移・理想化転移・鏡転移を絡めていくとか、論の膨らませ方としていろいろあったんじゃないでしょうか。単純な3段階ではなく、たとえば「それぞれの欲求が軸となり、3次元を構成している」と考えるのでも、マズローを乗り越え、人の見方が深まります。診断の一元化を免れることが出来る。
ところが環先生、そういうほうに行かない。最終章で、聞きかじったような声楽療法や認知運動療法の話をし、論を終えてしまう。情報が素通りしている。新潮クラブにカンヅメにされて書き上げたことを嬉しそうに「あとがき」で書いてますけど、ほんと、ただのカンヅメですよ。発酵し熟成するまで待ってないじゃないですか。この本に詰め込まれた諸々の発想。それが現場においてもつれあい、腐臭を放ち、元の形も定かでなくなるとき、たぶん、有益で面白いものが生まれてくる予感がします。でもそれは「この本」ではないと思いました。


そういえば読みながら、「現代は人間関係が希薄になって」といった一般論に違和感が浮かんできました。本当はそうではなく、反対に「希薄な人間関係」が無くなったんじゃないだろうか。どれもこれも「濃密」になっている。家庭や学校、職場といった「濃厚な人間関係」だけがあり、それ以外の「関係」が無い社会になってるんじゃないか。だから「うつ」という症状が「希薄さ」を求めての、自己治癒的な働きを見せているように思えてきました。笠原先生の退却神経症論の中で、「親でも教師でも医者でもない大人」が登場し、患者さんと薄い関係性を築き上げることが治療の転機として描かれてたような気がする。でも今は、そういう第三者が現れても「身体や金が目的」だったりするからなあ。イヤだイヤだ。ベトベトしてるわ。

退却神経症―無気力・無関心・無快楽の克服 (講談社現代新書)
退却神経症―無気力・無関心・無快楽の克服 (講談社現代新書)笠原 嘉

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