フロイトとベルクソン

フロイトとベルクソン
フロイトとベルクソン渡辺 哲夫

岩波書店 2012-06-28
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フロイト全集訳者のひとり渡辺哲夫先生によるフロイト論。話は小林秀雄の講演から始まる。講演のなかで、この希代の天才は「フロイトベルクソンは人間の本質に気づいていた」と述べる。いったい何に気づいていたのか。「人間の本質」とは何なのか。確かに、この同時代人の類似性を指摘した者は少ない。ほぼ、いない。狭い了見の専門家たちしかいないからだ(ドゥルーズがやってた気がするけれど、ここは渡辺先生のノリで)。だから、この小林秀雄の言葉は後代の宿題として残されている。この本は、この「謎」を解く推理小説のような著書である。
とはいえ、渡辺先生の力量不足が目立つばかりで、話は進展しない。面白い「謎」なんだけどね。ダメだわ、「ただのお医者さん」じゃあ。年表を並べて二人の間の接点を探ろうとするものの、挫折。何人か共通する交友関係(ユングとかミンコフスキーとか)は出てくるけれど、そこまで。そりゃあそうだろう、僕自身の人生論的支柱は忌野清志郎先生であるが、直接接点はない。コンサートに行ったこともない。年表で見つけられる物事ではない。事実確認を始めれば何かつかめると思っているあたりで、渡辺先生の凡庸さが出てしまってて、興が殺がれる。
ただし、ベルクソンの『物質と記憶』に出てくる「逆円錐の図」に着目してるのは的に近い。いい線を行っていると思う。読んでいても眩暈がしてくる。人が死と向き合ったとき起こる「走馬灯体験」。自分の全人生が一瞬の間に想起されるパノラマ。これは、人間の精神が現実との接点を失い、そこでの視野狭窄を逃れたとき、内奥に蠢く生命活動そのものを見てしまうからだ。そう直感するベルクソン。まず、これは間違いあるまい。現実への神経集中の背面には、無時間な想起の塊が控えている。ただ人は、それに普段は気づかず、過ごしているだけだ。
この部分がフロイトでは「エス」になる。一般に知られる精神分析の「快感原則 vs 現実原則」の図式をフロイトは信じていない。もし人間の奥底にあるのが、快感を求めようとする幼児的な性向であるなら、戦争体験者が頻繁に「自らの死」をフラッシュバックするわけがない。夜、汗まみれになり悪夢から目覚める日々を反復する。フロイトが『快感原則の彼岸』で描いているのは、こうしたPTSD系の症状をどう読み解くかである。人間の無意識に潜む狂気は「自らの死」を望んでいる。この気味悪さ、おぞましさに分け入るのがフロイトの真骨頂と言える。
だから「このベルクソンフロイトの見据えたものを見よ」とする小林秀雄の態度は正しい。現実適応なんてものは、所詮数十年の「先送り」に過ぎない。そうではなく、「心」そのもののあり方、生命そのものの不可思議に触れるのが学究の徒の使命であろう。それこそ、死んだら分からなくなる。生きている間に参究せねばならない一大事だ。ところが渡辺先生は「これで魂の不死が証明された」と愚にもつかない方向に筆を進ませる。「還暦を過ぎると、そうしたことに気づくものだ」とはまた、くだらない60年を過ごされたものだ。どう見てもフロイトは「死は死である」と直面化させてるんだけどね。見えないのかね、可哀想に。
あと、「投射」のくだりは論が捻じ曲がりすぎて納得できない。「心」にとって「内界/外界」の区別が無いというのは同感である。「精神内界がどうのこうの」という論は、フロイトを知らないニワカ心理学者の戯言だというのはその通りである。ただフロイト精神病者の投射を「抑圧しきれなかったものが外界から回帰する」と記載したことに異を唱える理由にはならない。幻聴にしても、させられ体験にしても「外から自分に入り込んでくる」という患者さんの感覚に間違いはない。つまり、投射が「内と外」の区別を生む。「健康な人たち」というのも、精神病の亜種なのである。逆円錐図の平面Pが鏡になり、そこに自らの円錐が映り込む。これを人は「外界」と呼び、自らの狂気を「外部」に見ることで自然を制御しようとし、隣接する他国に憎悪を向け、「前向きで生産的な社会」という破廉恥なものを構築しているのである。フロイトならそれも含めて「投射」と呼ぶだろうし、バタイユの「企て(projet)」もそれのことじゃないか。


大部分は小林秀雄ベルクソンフロイトの引用からなり、そこに渡辺先生の感想がついている小論ではある。けれど、この「引用」は絶対に面白い。そこを自分で読み解いていければ、と思える「好著」である。喩えてみるなら、名探偵がまだ出てこない難事件を渡辺先生は嗅ぎ取っているのに、自分自身は「名探偵」になれず、読者にその地位を譲っていると言えるだろうか。