『臨済録』―禅の語録のことばと思想

『臨済録』―禅の語録のことばと思想 (書物誕生―あたらしい古典入門)
『臨済録』―禅の語録のことばと思想 (書物誕生―あたらしい古典入門)小川 隆

岩波書店 2008-11-18
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禅師は皆、大ボラ吹き。「如何なるか仏、乾屎厥、ハハッ!ありがとうございます、と、こうでなければ禅は分からん。直感でいかなければ、心眼は開けんであろう」。山田無文や柴山全慶などなど、歴代の日本の禅師たちの理解はこの程度です。こうした直感やら心眼やらに固執した日本禅のあり方が、どれほどまでに禅思想において異質であるかを、禅籍を中国語として読むことで暴き出した本。北京大に留学し、駒沢大で教鞭をとる小川先生の論文集です。第一部の「柏樹子の思想史」が面白かったですね。第二部の「臨済録導読」はそれほどでもなかったです。エピローグの鈴木大拙論は、中途半端な遠慮が入っていて切れ味が悪く思いました。
さて、乾屎厥。「糞掻きベラ」と訳される言葉。尻に付いたウンコを削ぎ落とすために使われたヘラと言われてます。もちろん、そんなヘンテコなもの、中国で使いません。前のウンコが付いてるヘラで尻をなぞっても、ウンコなんか取れませんよ。しかも他人のが付いてるかも知れないのに。よく分からん道具を夢想し「そのような卑近なものにも仏は宿る」とか言うのは、日本的なアニミズムですよね。結論が先に用意されてて、落としどころを作っている。それを「悟った」と言ってもウソ八百です。よくぞ、こんな人たちが高僧として崇められてきたもんだ。
「屎厥」自体でウンコの意味です。当時の書籍を紐解くと、「その言葉は屎厥である」といった用法が出てきます。その場その場の産物として出てきた「言葉」。それはただの排泄物に過ぎず、そこに囚われてはいけない。そういう戒めとして「屎厥」を使います。しかもストック・フレーズとして長い間使われ干涸びてるから、乾いたウンコ。ダメ出しなわけです。「仏とは何ですか」「使い古された概念に過ぎない」。それが「乾屎厥」なわけで、中国の禅師たちは真っ当な会話をしてます。遊びで修行してるのではない。命がけで真実を求めているのだから、その問答も真剣勝負。師匠も弟子に悟ってほしいから、理を尽くして説明してます。
唐代の禅は、なんとか「悟り」という体験を言葉にしようとしてる。馬祖道一の「即心是仏」のように、「仏とは、自分自身の主体性のこと」という簡潔な体験を弟子に伝えようとしています。弟子の注意が「外」に離れそうになると、その頬を叩いたり鼻を引っ張ったりして「自分自身」に注意が向くように工夫する。Here&Nowな即今目前聴法底の「自分自身」。分かりやすいです。そして、難しいことだと思う。分かれば一瞬。分からなければ、死ぬまで掴めない真実。ところがそれが、宋代には相手をケムに撒く言葉遊びに堕し、中国では禅仏教が衰退していく。日本に伝えられたのは、そういう末期ガンのような禅。
畢竟、心理療法も似たようなものですね。フロイトにしてもロジャーズにしても「心とは何か」を四苦八苦して言葉にしようとした。なのに、彼らの言葉を「専門用語」というウンコにし、「心眼で掴め」とばかりの模造品が今に蔓延る。「俺は海外留学したから偉いんだ」みたいな輩ども。だから、本来の心理療法を進みたいなら、やるべきことはシンプルです。もう一度、自分の頭で「心とは何か」考えること。自分がどれほどまでに常識的な思い込みで「心」を見てしまっているか思い知ること。そして、掴んだものを自分の言葉で語ること。