対話という思想

対話という思想―プラトンの方法叙説 (双書・現代の哲学)
対話という思想―プラトンの方法叙説 (双書・現代の哲学)内山 勝利

岩波書店 2004-09-28
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京大のギリシア哲学研究の流れを汲む、内山勝利教授。狙いは画期的なのに、なかなか的に当たらなくて歯痒く思ううちに論が尽きている。残念な感じがする。
プラトン哲学には従来、「我々の住む世界は偽りの世界で、幾何学の理念思考を通して真の世界を垣間見ることが出来る」とするピタゴラス教団の影響があるとされている。まあ、数学や科学の起源はこの「ピタゴラス」だが、それを理論的に整備したのがプラトンイデア論なわけだ。なにしろ、この世の物理法則を数式で書き表せるという「信念」がなければ科学は成立しない。実際の観察で起こる多様性を「誤差」として切り捨てるには、「本当のことはそれではない」というイデア論が必要となる。哲学はそのイデアに近づく方略として発展してきた。
ところが内山先生はそれに異を唱える。プラトンの力点は「イデア」にはない。あるのは「対話」のほうだ。誰かの考えが他の人に「伝わる」とはどういうことか。そのことにプラトンは最大の関心を払っているのだ、と。だからプラトンは生涯、論文を書かなかった。後の哲学者たちがやるような、一人で考察を重ねる論文を、プラトンは書かなかった。彼が書いたのはいつも、誰かと誰かの「対話」である。その対話も、どちらかの意見の正当性を際立たせるような寓話ではなく、対話を重ねながら、互いの論の正当性が危うくなり、さらに謎が深まる奇怪な文章である。なぜ彼は、そのような著書を書き連ねたのだろうか。
プラトンが憧れ、ソクラテスが愛した「知恵」は、一人の人間が頭をひねって出すものではない。異なる二人が「対話」するとき、そこに見え隠れする揺らぎが「知恵」なのである。たぶん、プラトンはそう言いたかったのだろう。二人の人間が出会うとき、そこに重なる領域がある。その共鳴する魂から「知恵」は生まれる。ソクラテスは自身を「ケア・テイカー」と呼んだ。それ以前にも「心」や「魂」について語る哲学者はいたが、彼らは自分の「正論」を一方的に説き、弟子たちは有り難くその言葉を受け継ぐだけであった。そうした「教育」は矮小化を招く。なにしろ、言葉を受け取る弟子の「器」は師よりも小さい。弟子が理解できなかった部分は抜け落ち、下世話な道徳に堕落する。「教育」で「知恵」は伝わらない。
哲学は語り合う。二人が奏でる音楽が、そこに顕現する。師の言葉ではなく、自分の言葉を語る。「思い込み(ドクサ)」の埃を払いながら。隻手には無限の「声」が潜在する。その「声」を現実化するための対話。こう見えてしまうから、内山先生の論は京大系と言うか、「禅師ソクラテス」なんだよなぁ。