不確かさの中を

不確かさの中を―私の心理療法を求めて
不確かさの中を―私の心理療法を求めて神田橋 條治 滝口 俊子

創元社 2003-09
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神田橋先生と滝口先生の温泉対談。滝口先生の聴き方が良いのだろうなあ。神田橋先生の持っておられる「臨床の妙」を引き出しておられる。神田橋先生、お調子者だから、対談の相手によってはオカルトめいた話をしてケムに撒かれるんだけど、滝口先生の前ではそうした態度をひそめ、心の底から話をされています。それも、これからの臨床家たちに残したい言葉を語っておられる。
「役立つもの」が役立つのは、そのための土台が安定してるときだけの話。順風のときには「役立つアドバイス」が役に立つ。でも、その土台が崩れてしまったとき。そうしたときは「土台」を前提にしてる「役立つもの」は役立たない。大相撲に喩えてみると、押し出しや上手投げなんて「技」は、相撲のルールが守られている土俵上でないと役に立たない。土俵が四角いとか、高低差があるとか、相手が木刀を振り回してるとか、二人掛かりで攻めてくるとかいったときに「技」は役に立たない。「役」が成立する条件である「ルール」が最早無いのだから。そんなとき役立つのは「それまでどれだけ役立たないことをしてきたか」という経験。それが分かってないと、土俵が壊れて困っている患者さんに会うことは出来ないでしょ? はいはい、もっともな話です。
ちょっと違和感があったのは、精神分析と行動療法の関係のところかな。精神分析の話は行動療法の用語に置き換えることが出来る。ええ、そうです。だって、行動療法家ってもともとは精神分析家だから。「ただ、無意識は行動療法にはない」となると、どうかなあ。行動療法の「行動(behavior)」ってactionではないですよ。日本人がイメージする「行動」は、目に見えるactionと取り違えてるんじゃないかな。behavior自体は、目に留まるものではない。意識せずに反復されている情動や思考、言葉、行為を全部含めbehaviorと呼ぶ。だから「習性」というニュアンスもこの語にあるわけで。そのbehaviorに注意を払うことで取り出せるのがaction。無意識と意識の関係と同じに思うけどね。
精神分析の「無意識」にしても、結局は夢の報告なり描画なりで表現型(action)になってから、潜在態(behavior)として仮説構築される。ケース・フォーミュレーションと見れば、そんなに違うものじゃないですよ。