精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際

精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際
精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際ブルース フィンク 椿田 貴史

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難解とされるラカン派の分析を分かりやすく解説した本。というか、ラカン派は難解ではない。難解なのは下手な翻訳をするからで、実際にフランスに行ってトレーニングを受けたアメリカ人のフィンクには「とても当たり前なことをやってるだけですけど」と戸惑いが見えます。ほんと、基礎通りの精神分析技法が書いてある。臨床家にはどれも「あるある体験」な理論です。
でも他派とは大きく違っている。その部分から読んでいくと、ラカンが何を目指していたか、分かりやすくなるかな。まず、自我心理学。アメリカに精神分析が渡って出来た自我心理学とラカン派の違いは「強い自我」という考え方。ラカン派はしません。「強い自我」というのは「強いアメリカ」なわけです。原始的な無意識の力を自我主導でコントロールしていくという、アメリカンな発想。神経症になるようなのは弱い人間、発達の未熟な人間だ。それを分析家が正しく指導していく。そういうスタンスです。「圧政的な王様に対し、民衆の声を翻訳し届けていく」としたフロイトとは真っ向反対。そりゃあ、そうでしょう。精神分析は、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人たちの哲学だから。フランスのラカンも、パリ占領時代にナチスと闘ってたので、こういう「強い自我」にはうんざりしてます。
次に対象関係論の投影同一視という考え方。クライエントの病的な部分が投影されて分析家側の健康な部分が侵食されるという、「そりゃあ、ただの逆転移でしょう」とフィンクはバッサリ切り捨てます。分析家もまた病気なだけで、その病気の部分が活性化したからと言って、その責めをクライエントに押し付ける態度にしか見えない。「誰もが不完全な人間なのに」と、あの世でフロイトが嘆いていそうです。
そして、間主観性心理学の第三主体。僕はラカンの「大文字の他者」に似てると思ってるのですが、これもフィンクは「想像的関係に過ぎない」とけちょんけちょんに貶します。確かに、いろんなイメージが面接中に浮かび上がってくるし、そのイメージはそこにいる二人の関係によって生起したものです。ただ、それだけなら想像的関係、自分がイメージしてるだけの思い込み。それに捕らわれると、クライエントが本当に語っていること(パロール)から目を逸らしてしまう。しかし、どこまでもパロールに準拠するのが精神分析である、と。
でも最後のが分からないなあ。フロイトの「漂う注意」はむしろ、セラピスト側の自由連想が治療ツールであるという考え方です。ラカンも「真理はどちらが語ってもいい」と言ったのは、ここあたり。「イメージが真の対話を阻害している」というのがシェマLだから、フィンクの言わんとすることも分かる。間主観性心理学がまだ、想像的関係と象徴的関係の区別が出来てないだけのことで、方向性はラカン派と同じだと思うんだけどね。
ただ、大筋で言えば他派は「セラピストは正しい」という前提を隠し持っている。「正しい発達段階」や「合理的/非合理的」という分類をセラピストは知っていてクライエントは知らない、と想定している。「そこがラカン派と違うところだ」というのがフィンクの主張だし、ラカン自身もソクラテス的な「無知の態度」を何度も強調している。セラピストはクライエントのことを何も知らない。だから知りたいと思う。ビオンの link-K とも通い合う態度。
これが日本に来ると、立木康介みたいな「私は知っている。あなたたちは知らない」という文体になるんだよなあ。ちゃんとフランスで勉強してきた?


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あと、フィンクの要点は「知を想定された主体(Sujet Suppose a Savoir)」なんですけど、内田先生が書いてる「先生はえらい」のことです。特に、劉邦の軍師であった張良が「知」を獲得するエピソードが載ってますが、ここに出てくるやり取りが精神分析。というか「それまで知らなかったことに、いかにして人は気づくことができるか」という教育の根本を考察するのでないと、クライエントに「気づき」は生まれません。教育者が人格者である必要はないけれど、自分のしていることに自覚的であるべきです。それは心理療法家においても同じこと。