ピアジェ入門

ピアジェ入門 (国土社の教育選書)
ピアジェ入門 (国土社の教育選書)波多野 完治

国土社 1986-12
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これ、どこも「入門」じゃないよー。タイトルに騙された。そして、騙されて良かった。日本にピアジェを紹介したお茶の水大学長、波多野完治先生。というか大学長だったのは1971年か。はっはっは、この本も1986年初版だ。すげーぜ。こんな面白いピアジェは初めてだ。
1980年にピアジェが亡くなり、それを受け、業績を分かりやすくまとめてくれている。でも、感覚運動期とか形式的操作期とかじゃないよ。ピアジェを「そんな発達心理学者」と思い込むのは、フロイトを「性欲と夢占いの人」と呼ぶくらい滑稽なこと。ピアジェがフロイディアンで精神分析学会に論文を提出してたことや、道徳性や情意の発達の研究もしていたこと。14歳で、軟体動物について学術雑誌に載るほどの新進気鋭な生物学者だったことなど、トリビアがいっぱい入ってます。波多野先生の「世界中でピアジェが分かってるのは私だけ」みたいな自画自賛も愛嬌があり、なかなか憎めない。東大を「一高」と呼ぶ世代には勝てないわ。フランス語もロシア語も原著で読んで、世界の動向を追いかけてるものなあ。こういう大学人、最近いないでしょ?
さて、この本を読みながら思ったのは「学習理論」と「発達理論」の違い。「学習」という概念は英語圏の産物です。ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」に始まるイギリス経験主義。これがアメリカに渡り、行動主義心理学に展開していく。外界から教えられることで、人は新しい行動ができるようになる。何も教えなければ、何も変わっていかないという考え方です。人間を工業製品のように考えている。
それに対し、「発達」はカントに端を発してます。それがヘーゲル弁証法になり、ベルクソンの創造的進化になる。もともと生物には、自ら発展しようとする力がある。外界に働きかけ、それが抵抗に会うことで不均衡な状態が生じ、その矛盾が止揚されることで新しい知性を獲得する。そういう、自ら変化する力への信用が「発達理論」です。どの発達段階であっても、それはシステムとして完全形であり、何も劣ったところはない。それを外部からの力でたわめてしまい、元あった創造性までも殺して「平凡な人間」にしてしまうなら「教育」の失敗だ、というのがピアジェの根幹思想です。ルソーが「エミール」を書いた頃から、大陸合理論は一貫しています。さすが麦と羊で暮らしてる人たち。
この「学習」と「発達」。全然方向性が違う。サルとネコくらい違う。人間はコピーでしかないか、それともオリジナルなのか。けれど、日本人はこの軋轢を知らずに、両方を吸収してしまいます。ここが世界に対し、日本のアドバンテージのあるところ。「教育」という言葉がそうですね。「教える」と「育てる」。それぞれ学習と発達を指している。良い言葉です。この二つのバランスに「教育」がある。このことが分かっているなら、欧米の教育論のいいとこ取りができる。分かってないなら、「発達障害」の治療論に学習理論を持ち出すマヌケな羽目になる。DSMの「発達障害」は「コミュニケーションの学習障害」でしかないもん。アメリカ人は全然「発達」が分かってない。
翻って臨床心理学は、教育のうち「育てる」に特化したもの。だから、心理療法は「何かを教える」というスタンスにならない。土台が育ってきてからアドバイスすることはあるにしても、それまでは「育てる」に徹する。けれど臨床心理学って、精神分析や精神医学とごっちゃにされてるんだよなあ。全然違うよ。河合先生が、ただの数学教師で心理学を修めてないのに、自分を標準にした資格団体を作っちゃったせいだな。臨床心理学は「心理学」を基礎におくのが当然。そうなると、ピアジェの考察をどう現場に生かすか論じてこそ「心理学」なんだよ。