賭ける仏教

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話
賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話南 直哉

春秋社 2011-07-29
売り上げランキング : 38850


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
般若心経に次のような一文がある。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄

五蘊(心理作用)が全て無根拠であることに気づけば、あらゆる苦しみを超越できる」。この「度(=超越)」の一文字を、長い間「逃れられる」という意味だと思っていた。何にも囚われなくなれば、苦しみも無くなるのだろう、と。でも考えてみれば、「度」は「渡」の言い換えであり、この段はむしろ「苦しみの中を歩いていく」なのだと、歳を取ってから気づいた。「心理的な主体(=魂)など虚構であると自覚しながら、この苦界を私は生き延びていく」という観自在菩薩の覚悟。それを人間である「舍利子」に問いかけるのがこの仏典の主旋律であるとしたら、同じ覚悟が「私」にも問われている。
そして、そんなレベルよりも先を行かれている南禅師の新刊。道元に惚れ込み出家したものの、既存の日本仏教の枠組みからはみ出してしまい、青森の恐山に住職として暮らしておられる。変人ではなく、普通の人である。真摯な思索家である。そして仏道の実践者。仏教から宗教的な要素を差し引けばきっとこうなるだろう、という生き方を実践しておられる。それ以外に生きて死ぬ道はないくらいに。
やはりまず、その真摯さは「悟り」の否定にある。「悟り」が無いのではなく、「悟り」自体には大した意味など無いという立場。「悟り」は日常の言語構造が壊れて起こる変性意識状態に過ぎず、それを求めるなら断食なり薬物なりですぐに得られる。それを大事件に思うから「私は神だ」と言い出す輩が出てくる。道元の着眼はそんなところでは無い。身心脱落は入り口に過ぎず、「我々が現実と思っているものは、ただの言語構造に過ぎない」と気づいてなお生きていくにはどうすれば良いか、にある。生きることに意味は無い。それでも生きていくには、自らが生きてみせるという実践に賭けるしかない。それが本書のタイトル「賭ける仏教」なのだろう。
ありがちな「全てのものには、いのちがあります」みたいな甘ったるい言説には、「じゃあ、原爆にもいのちはあるんですか」と突っ放す。良いですねえ。所詮そのような「いのち」も「言葉」に過ぎない。「言葉」にはいつも、言い表せない「余り」が付きまとう。そのことを自覚し、しかも人は「言葉」とともに生きるしか無いのなら、その「言葉」を刷新し続けるのが仏道。留まらない。だからと新作言語を弄ぶのではなく、日常語を研ぎすます方向で生きる。著書を重ねるごとに、仏教用語や哲学用語が減って来てるのも良いですね。恐山に移ってから、そこを訪れる人たちの苦悩を聞き続け一緒に苦悶し、ますます言葉遣いが「自然」になっておられる。

あと、後半で妻帯問題について、あれこれ言い訳めいた話が続くのは見苦しいです。なんです、結婚したこと後悔されてるんですか? 性欲に負けただなんて、誰も思いませんよ。負けたとすれば、禅師の場合、「家族愛への飢え」に負けたのでしょう。自分だけ無傷でこの世を渡っていけるなんて都合の良いこと、起こりやしません。