からだとこころ

からだとこころ(日本の心理臨床3)
からだとこころ(日本の心理臨床3)成瀬 悟策

誠信書房 2009-08-01
売り上げランキング : 71453


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
はあ、忙しい。学会に向けて準備に追われ、妙に肩が凝ります。
ということで、肩こり解消の動作療法。身体から心理へとアプローチしていく、日本が誇れる心理療法です。緊張も不安も、身体に刻み込まれることで居坐ってしまう。それを言葉でいくらアプローチしたところで解消するわけがありません。直接、身体のほうからほぐしていきましょう、という方法論です。
今までの動作療法の本はハウツーに徹していたのですが、この本は面白いですね。成瀬先生が哲学的側面にまで踏み込もうとしている。まあ、いくら先生がお元気とはいえ、いつどの本が遺作となるか分からない状況ですし、方法論なんて弟子たちに任せ、やはりこのセラピーの深淵を切り拓いておいてもらわないと、後々続く者たちが困ります。何を考えながらクライエントの身体を整えていくのか。そこが不明なまま没せられてしまうと、ただの整体術と変わらなくなりますからね。
とはいえ、ほとんどが現在の臨床心理学への苦言。まあ、馬鹿な京大系の先生方が物知り顔で語る「たましい」とやらを、「オカルト」と切り捨ててます。そりゃあ、そうでしょう。訳分からないですから。身体という明確な存在からアプローチする成瀬先生には、実在しないものを話の中心、根っこの部分に据えて語る連中は詐欺師にしか見えないでしょう。無いものを売りつけようとするペテン師たち。なんでまた、そんな輩が日本の心理学の中心に居座っているのやら、と。
とはいえ、僕から見てもまだ、成瀬先生も「オカルト」なんですけどね。だって、その理論では「主体」などというものを持ち出す。「やる気」とか。それって「たましい」に置き換えても、同じ文章の構成で書き綴ることが出来るでしょう。なら、論外です。その「主体」をも、さらに言葉で分節化しようとするのでなければ、臨床心理学は21世紀を生き残れません。「物質」に落としても意味ないですよ。「物質」なわけが無い。「主体」は、他でもないその人自身が「いま主体的に関わっている」という実感に基づくものだから。「物」には落ちない。どこまでも「心」であるし、それが何かを問い詰めないなら「心理学」と名乗る資格はない。


昨日、上のような文章を書いたけど、これは分かりにくいな。結局、「主体」という上位存在を考えている時点で「たましい」と何ら変わらない、ということ。「こころ」や「からだ」を統合する上位存在を勝手に想定して「たましい」と呼んで来てるのが宗教だから、それを「主体」と呼び変えたところで事情は変わらない。そういう「物」があると考えてるからね。これをさらに唯脳論みたいに「前頭葉」と呼んでも同じこと。じゃあ、その「前頭葉」はどうやって「自分の意志」を持ってるんだ?ってところで躓くから。「そこが魂の座だから」って言ってるのと変わらなくなる。
つまりは「主体がある」とか「たましいがある」とかではなく、「主体があるという感覚がある」に過ぎない。「私は、確かにこの私だ」という感覚。それは「物」ではなくて「感覚」だということを認めないと、考察が「なんでも主体のせい」の結論で停止してしまうんじゃないか、ということが書きたかった。