実践アレクサンダー・テクニーク

実践アレクサンダー・テクニーク――自分を生かす技術
実践アレクサンダー・テクニーク――自分を生かす技術ペドロ・デ・アルカンタラ 風間 芳之

春秋社 2011-06-27
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下手なカウンセリングより、アレクサンダー・テクニック。音楽家がムリ無く演奏をするために開発された身体技術。ムリな姿勢で長時間演奏すれば、身体を壊すし、出てくる音も伸びない。一目瞭然に結果が判定されるだけあって、このテクニックの教師の上手い/下手は分かりやすい。そして、この技術一筋を極めた達人の言葉は、どの分野にも通じる深みがある。同系列の本はいくつか読んだけれど、このペドロ先生の言葉は世界各国で翻訳されてるだけあって、二番目くらいに深いです。一番目は芳野先生で。
ムリな姿勢を正すわけだから「正しい姿勢」があるかのように思うけれど、それは無い。あるのは、「正しい姿勢」を取ろうとして身についた、間違った姿勢。これを「エンド・ゲイニング」と言います。「目的志向な態度」ということかな。結果を先取りしてるから、現状に目を向けていない。自分の身体からのフィードバックを無視している。それでズレが生じる。というか、ズレてても「我慢」して身体を使おうとする。そうすれば、ムリが祟って崩れるのは明白なのにね。それでは長い人生を音楽とともに暮らすことが出来ないし、短い期間でも、自分の持てる力を引き出せはしない。分かりやすい原理です。
カウンセリングでも同じこと。というか、身体と心、言葉こそ違うけれど、どちらも「自分」のこと。「自分をどう使うか」だから、身体と心に分けてみても仕方ない。まあ、心身を分けたがるのは精神論を振り回したがる人たち、というか、他人にムリをさせたい人たち、だからね。そうではなく、「自分」の日々生きている様子を指し、外から語れば「身体」で、内から見れば「心」なだけ。そこには本来ズレなどない。こうなってるのが「自然な状態」となるかな。心身にズレが生じているのは、「普通はそうではない」と言われ、平均値的な「普通」を目指したばかりに生じるエンド・ゲイニング。外からの情報に振り回されている状態。その「普通」から「自然」へと導くこと。それがアレクサンダー・テクニックだということです。
指導の要点は、そのエンド・ゲイニングな動きをはずすこと。だから指導者の側もエンド・ゲイニングを行わない。どうすべきかが出てこない。これは「指導」の根本を変える考え方だね。ノン・ドゥーイング。老荘思想的な「無為の為」が中心に置かれます。でも分かるなあ。これは変化への早道だわ。自分をムリさせている本体がエンド・ゲイニング。そこに照準を合わせれば、ムリが起こらなくなる。無理が無くなれば、理に適う。
なんか、物事の核をズバッと突いてるような本。そうそう、「自然な状態は、リラックスした状態ではない」も、なるほどと思いました。リラックスした状態を目指せば、そこでエンド・ゲイニングが生じる。だいたい、完全に弛緩し切っていたら、もう死んでるからねぇ。生きてるなら、ほどよく緊張しているのは当然でした。


あらゆる技術は(カウンセリングも含め)「相手を操作したい」という下衆な欲望から生まれている。それをどこまでわきまえておれるかだろうなぁ。アレクサンダー・テクニックが「無為」に敏感なのも、対象が「生徒自身の自己表現」だから操作しようがないのだろう。そして生徒の自己表現も、生徒が楽器を操作しようとしているうちは実現せず、「楽器自身の自己表現」になったときに実現するシロモノ。心と身体が一体になるように、自分と楽器が一体になる境地に結果として到達する。「操作」は、「操作するもの」と「操作されるもの」の分裂を生じさせ、その「一体」を亀裂するから「無理」になるってことかな。