ハイデガ−入門

ハイデガ−入門 (講談社選書メチエ)
ハイデガ−入門 (講談社選書メチエ)竹田 青嗣

講談社 1995-11-06
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まあ、竹田青嗣現象学者だから、ハイデガーに関しては部外者である。アマゾンのレビューにあるとおり、この本は「ハイデガー実存主義者として誤読している」。でもそれは確信犯だろう。なぜなら、木田元先生の研究にも言及し、存在論として読むのが「正しい」と分かった上で、実存主義的側面に触れているから。ハイデガー本人の意向とは別に、当時「存在と時間」は実存主義哲学として流行した。サルトルメルロ=ポンティを輩出するわけだ。本当の「ハイデガー思想」と、語られた「ハイデガー思想」。その二つを混同してはいけない。
と、以上のような「本当」と「本当ではない」の区別。実はそれがハイデガー思想の根幹である。面白いね。メタ・レベルに謎掛けがある。「それは本当だ/それはニセモノだ」の判断。その根拠をハイデガーは問いかけている。だから「本当のハイデガー思想」と言ってる輩はハイデガーを分かってない。少し考えれば分かるように、「正しい」という判断は客観的正当性を要請している。「客観」とは何かと言えば「神様から見て」ということだ。「絶対的に正しい存在」を想定しないと「客観」は語れない。でも、ハイデガーはその「神」を否定した。現代は「絶対的なもの」を持たない。神はいない、王はいない、イデア界はない。そういう現代において、なおも「正しい」を語るにはどうすれば良いか。それがハイデガーの問題意識だ。誰でも常日頃「正しい」や「良い」の判断をしている。何かは分かっている。考察はそこから始めなければいけない。
でもハイデガーはすぐに「本来的」と「非本来的」の区別に躓いてしまう。日常感覚に「正しい」はあるけれど、人々の日常は「欺瞞」に満ちている。その矛盾。結局は考察を続けると「絶対的なもの」が必要となり、何に準拠するかで彼が求めたのが「死」だった。日頃の暮らしにおいて人々は「死」を避けているけど、ひとたび「自分の死」を意識すれば「本来的な生き方」に立ち戻れる。なんだ、メメント・モリじゃないか。そうした理解で、第一次大戦後の知識人たちはハイデガーを受け入れ、実存主義創始者として祭り上げた。
で、この思想はファシズムを産む。恐ろしいことだ。個人の「正しさ」と共同体における「正しさ」。それは「死への覚悟」において一致している。もちろん、個人と共同体とが不一致を起こせば、それは「正しい」の定義に反してしまう。人間は社会的な存在であり、「正しい」は誰にとっても「正しいこと」。でも、そうした個人と全体との一致を求めていくと、「正しい」は自己中心的になる。全体主義の温床になる。そして第二次大戦へと突入。自分たちの「正しさ」のために、人々は死んでいく。
結局、現代哲学に「宿題」として残されたのは、このハイデガーをどう乗り越えるかである。黙殺してはいけない。では、代替案はあるのか。竹田青嗣レヴィナスを持ち出す。レヴィナスは、ハイデガーの「死」の代わりに、「孤児や寡婦」を「絶対的なもの」として立てる。とても戦後的な思想だ。か弱い他者。それと向き合う「惻隠の情」を「正しさ」の根拠に置く。人間社会は本来的に「正しい」ではなく、むしろ矛盾に満ちている。不条理な世界にいる自覚。それが、神無き「現代」においてなお「正しさ」について語る唯一の突破口となる。


とはいえ、ハイデガーにしてもレヴィナスにしても、何か違うなあ。彼らの言う「主体」はカッコいい。「死への覚悟」も「惻隠の情」も一段上の人間が持つものだ。それを「正しい」とする限り、何も乗り越えないだろう。なぜなら、「乗り越え」とは「下」にいないと出来ないからだ。「相手より上」という意識じゃ、対話は生まれない。そもそも人間は「赤子」として生まれる。一段低いところから始まる。だから「まだ私は子どもだ」という恥の感覚に付きまとわれる。そこに「主体性」を置くのではどうだろう? 自分の「足りなさ」を意識するから「何が正しいか」の考察が可能になる。反対に、「私は正しい」と言ってる限り「子ども」のままだ。厚顔無恥な政治家が跋扈するのも「自分は正しい」と思ってるからだろう。そんなところから「正しい」は出てこない。
うーん、なんでこんな「正しいこと」が、哲学者には分からないのだろうか?(笑)


ハイデガー『存在と時間』の構築 (岩波現代文庫―学術)
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ホンモノの哲学者、木田元ハイデガーが書き残した草稿などを眺めながら、書かれなかった「存在と時間」の第二部を作り上げていく手際の良さ。推理小説のように面白い。