精神分析臨床家の流儀

精神分析臨床家の流儀
精神分析臨床家の流儀松木 邦裕

金剛出版 2010-08
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読んでて痛々しくなってきた。松木先生、エッセイが下手だなあ。オーソドックスな対象関係論の本。理論というより、実践家の心構えが書かれているので、それはそれで参考になる。
でも可哀想と言うか、これって、医療の現場から転職して、京都大学に来てみたら唖然とした、って話ですよね。「精神分析」として学問の場で教えられていることが、精神分析でもなんでもなく、ただのカウンセリングにカビが生えたような話だった。あるいは、神話や昔話をこねくり回すママゴトだった。それは違うだろう、何やってるんだ。と思って、そのことを雑誌に連載しようとしてみたけれど、松木先生は根が紳士だから、とても遠回しにしか表現できない。イライラだけが伝わってきて、全然すっきりしません。便秘になりそうです。
たとえば、事例検討会の持ち方。松木先生は「最近の1、2回の面接内容を丁寧に見ていくこと」として話を進めている。なぜか? それは心理士の事例検討会では、初回の面接から現在に至るまで、50回あるならその50回分を、一回の面接は3行くらいにまとめダラダラと並べていくのが「当り前」となってるからです。これは不思議。事例検討会というのは、セラピストの視点だけだと必ず見落としが生じるから、他のセラピストたちから意見をもらい、クライエントへの逢い方を深めるチャンスです。もちろんプライバシーには配慮します。けれど、3行ほどにまとめてしまうのだったら、見落としも何も、すでに「発表者が把握できている流れ」しか提示できません。そこでどんなフィードバックをもらえるんです? 「分かってること」を話して「分かってること」が返って来るだけです。
なぜそんなムダなことをするのか。それは「発表して傷つきたくないから」という、セラピスト側の保身に過ぎません。それが心理士の世界では蔓延っている。でも精神分析はその反対。「私には分からないことがたくさんある」と認めること。しかも、クライエントでさえ分かっていない、主観の世界を扱おうというのです。言葉のやり取り、コミュニケーションだけ見ても何も分かりません。そのとき感じたこと、思い浮かんだことを丁寧に見ていく。それが精神分析の態度であり、フロイトから続く一本の道です。
「そんなことだから、精神分析は時間が掛かるんだ」。そう非難されます。当り前です。精神分析は、「生きていても仕方ない」と呟くクライエントの命綱を握っている。絶対離さない。「10回で効果なければ終了する」なら楽ですよ。そういう方法なら、統計を取れば「効果的」と出るでしょう。でも「7割改善した」という結果は「3割の命綱は手放した」という意味に過ぎません。離さなければ、いつかクライエントがその綱を伝って、平凡なこの現実に戻ってこれます。その日が来るまで「手を離さずにいる」と声を掛け続けること。「あなたの話が私にはこう響いています」と解釈し続けること。それが、精神分析です。