マクルーハンの光景

マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室]
マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室]宮澤 淳一

みすず書房 2008-02-19
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マクルーハンが1963年に書いたメディア論「外心の呵責」を読み解く入門書。たった9ページの小論文なのに「未来」がクリアに予見されている。まあ、マクルーハンは単に1963年の「今」を描いてるだけに過ぎないけど、凡人である僕たちは「今」を見てるつもりで実は「過去」、それも1960年代に萌芽したものが何かが、やっと見えただけのこと。こんなふうにインターネットを使う時代が来るのも、1960年代の延長に過ぎない。インターネットというメディアが、どういうメッセージを担っているかも。
「人間は頭蓋骨を内側に入れ、脳みそを外側に出して耐えている」。グロテスクなイメージ。電子時代に入るまでの「道具」は、人間の身体のうち、出力を司るものだった。身体の皮膚は、道具によって拡張され、「服」となり「家屋の壁」となり「街を取り囲む城壁」となった。足は道具によって、「靴」となり「自動車」となり「ロケット」となった。人間は道具を操る動物として、自分の身体を補強し、身の丈に余る能力を獲得してきた。
ところが電子時代に入ると、人間は道具を用いて入力系を拡張し始めた。もともと入力系、つまり「神経」を拡張する道具は「言葉」であり「文字」だったのかも知れない。外部からの情報を拡張する方法は、眼であれば「望遠鏡」や「顕微鏡」もそうだろう。ただ、そうした情報を伝える技術が「のろし」や「手旗信号」で済んでいた頃は、入力も身の丈を超えずにいた。でも、人類は電子を用い始めた。モールス信号の電信技術から始まり、「電話」「ラジオ」「テレビ」が普及していった。電線や電波が「神経」の拡張となった。すると、どうなるのか。
電子の時代となり、世界中から情報が頭蓋骨に流れ込むようになったのだ。それも、痛みが、哀しみが、狂騒状態が、頭の中に向かって流れ込んでくる。世界の喜びや苦しみが、小さな胸を締め付ける。ひたすら入力系が拡張され、それに見合うだけの出力は得られない。情報はもたらされても、それに働きかける手段を持たない状況。過剰な刺激過敏の時代。良い悪いの判断を超えて、一人ひとりが「地球」単位の情報に晒され、自分の身体とは別のところで「呵責」を受ける。
連日、地震原発のニュースを浴びながら、その危機的状況にこの身体が震える。それを人によっては、募金活動や応援メッセージで辻褄を合わせようとしているだろう。でも、その出入りは、いつも赤字だ。情報の入力が壊滅的に巨大だ。どんな反応も、神経症的な「ごまかし」に過ぎない。そして、逃れようにも立ち向かおうにも、既にそういう時代を僕たちは生きている。その事実だけが、ある。