「心」はからだの外にある

「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学 (NHKブックス)
「心」はからだの外にある―「エコロジカルな私」の哲学 (NHKブックス)河野 哲也

日本放送出版協会 2006-02
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根が大きくなると花になるのではなく、子どもが大きくなると大人になるのではない。根はどこまでも根であり、そこから茎が伸び、葉が茂り、花が咲く。人もまた、子どもの部分は子どものままで成熟し、それとは別に社会で学習を繰り返し、青年の部分が伸び、大人の部分が開けてくる。それぞれのレベルを混同してはいけない。
本書は玉川大学の河野先生。「心とは、身体と環境との関係性のことである」というエコロジカル・アプローチを推進する哲学者。根は地中深くもぐり、水分や養分のやり取りをし、入り混じることで「根」としての機能を果たしている。この相互作用が「生命活動」である。同様に人間の場合は、その相互作用を「心」と呼ぶ。この視点が分かれば、この本はそんなに難しくない。
結局、日本の教育において1980年代半ば「個性教育」が提唱され、かわいそうに、「自分探し」というつまらないことに若者たちが心を痛め出した。でも「個性」とは「花」のことである。長い人生を生き、艱難辛苦の果て、臨終の際に「我が生涯に一片の悔いなし」と叫ぶ「我が生涯」こそが「個性」である。何物にも代え難いもの。自分だけの生きてきた証。その人生の結果としての「花」が「個性」。なんでまた、10年そこらしか生きてない子どもたちに「個性」があると思うのか。
言うまでもなく、1980年代に「工業化社会」が終焉を迎えたからだ。もともと日本の戦後教育は「工場労働者の大量生産」という使命を担っていた。敗戦で荒廃した国土を立て直すには、優秀な工業製品を欧米に売りつけ、外貨で稼ぐしか手はない。だから、どの工場でも通用する画一化された「労働者」の育成に教育は隷属していた。そこに「個性」は要らない。むしろ雑音だ。でも高度成長期後、アメリカの鎖国的な経済政策により工業化は終結し、時の日本政府に「日本国内での内需拡大」を求めるアメリカからの圧力が生じる。それに応えて日本の商業化が始まる。国内マーケットの多様化。そして、そのための「個性教育」。
だから個性教育で求められる「個性」は「個性」ではない。自分自身を他者から差別化すること。自分の「売り」がどこにあるのか。つまり、個人の商品価値を「個性」と呼んだだけだ。その商品価値を企業に売り込むことが「就活」と呼ばれ、異性に売り込むことが「婚活」と呼ばれる。すごいよなあ。結婚が恋愛ではなく、売買のメタファで語られるなんて。「愛らしさ」や「頼りがい」、何であるにせよ、「商品価値」として自己アピールする段階で「奴隷化」だ。結婚してから、その「売り」が詐称であったり、年月とともに劣化した場合は「離婚」という名のリストラが待っている。つくづく下らない世の中になったもんだ。
ともかく、「個性教育」は、まだ根を張るべき子どもたちに「花」を求める。あるはずがないから、習い事か学歴で適当な「造花」を載せる。そして、その「造花」を「本当の自分」と思い、後生大事に守り続ける。根は痩せ細り、子どもらしくない子どもが作られていく。弱々しく疲れ果て、カウンセリングに連れて来られる。カウンセラーはしたり顔で「見立て」を付け、「その子個人の問題」として対処する。嫌な時代だなあ。
でも、そういう問題点を指摘してる河野先生自身も「これは本来の自己ではない」みたいな論点が見え隠れする。「本来の自分など無い」という立場なのにすぐ忘れちゃうんだね。やっぱり「個人」という思想に毒されている。しかも、心理主義批判をしてるはずなのに、批判の対象はデカルト主義でしかなく、味方として使う理論はギブソンフロイトの「心理学」だ。これじゃあ、何言ってるのか分からんよ。


途中にあるフロイトのエピソード。ある会議でフロアから「どうして精神病の人には自我漏洩(自分の考えていることが外に漏れてしまっていると感じる症状)が起こるのですか?」と問われ、少し考えてから「どうして通常の人は、自分の考えが漏れていないと思っているのでしょう?」と問い返している。まったくだ。この発想の柔軟性。フロイトってカッコいいなあ。フロイトなら「個性って誰得?」と言ってくれそうだ。