自分の頭と身体で考える

自分の頭と身体で考える (PHP文庫)
自分の頭と身体で考える (PHP文庫)養老 孟司 甲野 善紀

PHP研究所 2002-02
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解剖学の東大名誉教授と在野の古武術研究家。立場は違うけど、読んでいるうちに、どちらがどちらの台詞か分からなくなる。似てますよね。対談と言いながら、テーマがどこかにあるわけでなく、「ウスバカゲロウは植物の花のようなもので、あれは生殖形態だから消化器官がないんですよ」という話と「アボリジニの女性は地面に手をついてはいけないので、手の下に敷く葉っぱを探すのだけど、その仕草が茶道のように優雅だ」という話の間に、日本の教育問題や医療崩壊、差別問題が散りばめられています。世俗を超越してるお二人だから、どんな問題を扱っても、自分の利害とは無縁。というか、面白い虫を発見することと、新しい技を開発すること以外に、ご興味を持っていない。なのに博学だから、どんなテーマにも客観的で核心を突いた論点で議論が進む。
あ、間違えました。「博学」ではないですね。「方法論に筋が通っている」です。一本、芯のある方法論をそれぞれに確立しておられる。ただそれを、教育や政治に応用してるだけ。どういう「方法論」かというと、なんだろう? 結局、話されている話題とか解決策はどうでもいい話で、そこでお二人が使っている「方法論」を読み取ることがこの対談の価値だろうけど、うーん、なんだろう? まず無条件に「あなたの話は面白い」というメッセージを出し合ってますね。それと、相手の話を聴いて(カウンセラーみたいな)オウム返しはしない(笑)。きちんと、自分の中から湧いてきた連想やエピソードを返している。互いに話題をプレゼントし合って、その場を豊かにしている。だから、話の内容よりは、まずは楽しそうな場の雰囲気が作り出される。
でも、それは「方法論」ではないな。とすると、途中にある「墨を塗った教科書」のエピソードあたりか。戦後、教科書のうちの軍国主義的な部分を墨で消して、子どもたちは授業に使っていた。消した部分は、あたかも最初から無かったかのように教師も生徒も扱った。そのことをお二人とも不思議に思っている。つまり、墨で消しても「消してある」という事実は見えている。それは隠せない。なのに、なぜ他の人たちは「無いこと」にできるのだろう? 同じように、医学にも武術にも「無いこと」にされている事実がある。教育にも政治にも。誰もが見て見ぬ振りをしているところ。その部分が、実は「奇々怪々な事件」を説明する鍵となる。このお二人には「消されている」という事実が見える。だから、新しい科学的発見をしたり、新しい身体の捌き方が編み出したりすることが可能になる。これって、シャーロック・ホームズが言ってた「推理の基本」だよなあ。「何があるか」ではなく「何が無いか」を見極めよ、と。
そこあたりが、このお二人の「方法論」だろうか。タイトルの「自分の頭と身体で考える」はミス・リーディングだな。そんな体育会系のノリではない。もっとクールな感じです。