「あいだ」の空間―精神分析の第三主体

「あいだ」の空間―精神分析の第三主体
「あいだ」の空間―精神分析の第三主体トーマス・H. オグデン Thomas H. Ogden

新評論 1996-04
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フロイトの「無意識的な交通」を擬人化すれば、オグデンの「第三主体(ザ・サード)」になる。自由連想は、言葉で言うほど「自由」ではない(シャア・アズナブル)。連想は「そのときその場」に制約されながら浮かんでくる。その「そのときその場」を捉えようとしたのがオグデンだ。きっと日本でなら「サーたん」として萌えキャラ化されラノベになっただろう。魔法少女見習いのドジッ子サーたんの魔法で、男の子と女の子が恋に落ちたり、傷つけ合ったりしながら成長していくストーリーが書かれるに違いない。でも、オグデンなのでそれは無い。非常に残念である。
そういうわけで、クライエントとセラピストが出会い成長していく物語として、抑うつポジションや妄想分裂ポジションが採用される。第三主体が自ら成長するために、面接場面の二人を利用しているわけだ。まあ、抑うつポジションと妄想分裂ポジションは対象関係論の基本形なのでなんとなく掴めるが、さらにもう一つのストーリー、タスティンの「自閉接触ポジション」もオグデンは採用している。これがちょっと馴染みにくい。いろいろ考えたが、どうもバリントの「フィロバット/オクノフィル」の言い換えではないかと思えてきた。だって、フィルバティズムとか言いにくいんだもん。どんなものか説明するのも難しい。それにバリントは離乳期をどう乗り越えるかの話だが、「自閉接触」は出産体験に絡む。つまり、自閉症の子のパニックを、感覚過敏のある胎児が子宮から外界に出るとき、その環境変化に耐え切れず起こす不安を基本形に考えている。そのパニックへの対処として、外界との交流を遮断してしまう「自閉」をコーピングとして使うか、失われた子宮体験を求め他者にしがみつく「接触」を使うかになる。そしてそれぞれが停滞し、時刻表を追いかけ電車で放浪するタイプか、ゴミさえ捨てられず家から外にも出られないタイプになる。
まあ、考えてみれば、これは「通常の人たち」の根底にもある。自閉のほうは、状況から自分を切り離して客観的に眺める動き。接触のほうは、状況に埋没して寝食を忘れ集中する動き。外に出るか、内に籠るか。解離と依存。アリストテレスの「観相と実践」とも言えるし、サリヴァンの「観察と関与」とも言える。「通常の人たち」もたいていどちらかに偏っているから五十歩百歩だが、分析家はこの両方、「外から見たり、内から見たり」のリズムを持っていないと務まらない。そのリズムがあれば「自閉接触」は「観察関与」に進化する。つまり、精神分析とは「第三主体育成ゲーム」。そして「自閉/接触」とは「ツン/デレ」である。