方法としての面接

方法としての面接―臨床家のために
方法としての面接―臨床家のために土居 健郎

医学書院 1992-03
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そういえば土居先生の「わかる/わからない論」はビオンのLink-K(知の関係性:好奇心)のことだよなあ。それでちょっと思った。土居先生だったら「発達障害」をどう位置づけるだろうか、と。
自分の経験に照らしてみると「どうして分からないんですか」と訊かれることが多いかな。こちらの理解力も確かに高くはないけれど、でもやはり、共感しにくい面がある。表情や声のトーン、ノンバーバルなレベルであまりメッセージを出されない。その上、独自のロジックを組み上げていて、そのルールから逸脱したものには注意を払わない。そこあたりでズレが生じると「どうして分からないんですか」と不思議そうにされる。クライエントにとっては生まれたときからずっと自明であったことだから、その違和感は当然だろう。しかも、多様な価値観があるという発想に馴染みにくい。クライエントも知識として知ってはいるが、気を抜くとその視点が落ちるため、セラピストが別の視点を持っていることを忘れている。それで「どうして分からないんですか」となる。
反対に人格障害の人の場合。「人格(personality)」とはPersona、つまり社会の中で役割として身に付ける「仮面」という原義から、それが虐待やイジメなどの社会環境のために、特殊な「仮面」を防衛のために付けざるを得なかった人を「人格障害」と呼ぶ。いつの間にか「迷惑な人たち」の意味に使われてしまっているけれど、それは違うだろう。とりあえず、原義通りの「人格障害」。その人たちは「どうせ、人には分からないですよね」と溜息をつかれることが多いなあ。生い立ちの複雑さに、自分自身が社会からの疎外感を感じている。つらいけど「分からないですよね」を繰り返される。ある意味、それは仕方ないかも知れない。
精神病圏の人たち。「私」と「あなた」の区別があいまいになるほど強烈な体験に揺さぶられ、へとへとに疲れている。自我境界の崩壊ってことだ。そこをくぐり抜けた人たちは「分かってるでしょうけど」と言われるなあ。自分の思考が漏れているように感じている。だから、歯を食いしばって漏れないように頑張っている。妙にこちらが分かったようなことを言うと、それが「漏れていること」の証拠になる。でも健康な部分も維持されているので「このつらさを分かってほしい」と思っておられる。ゆっくり教えてもらうのが適切なスタンスかも知れないな。
あと、怒り方にも境界性人格の人と自己愛性人格の人とで違いがあるように思う。価値観の置き方が違うのかな。境界性の人は「嫌われた」と怒る。パニックになる。見捨てられ不安と呼ばれるのはそこあたりかも知れないけど、ちょっと違うような気もする。人に好かれる努力をしているんだけど、それが空回りで、なかなか成果が上がらない。どこか、自分らしくない感じがしてくるんじゃないかな。そんな自分が嫌いになる瞬間に切れる。頑張り屋なんだよなあ。自己愛性の人は「失敗した」と怒る。自分が格好わるい。怒っている自分も格好わるいから、ますます悪循環。自分の「弱さ」を受けとめてもらえなかったんだろうなあ。「頑張れ」と追い立てられてきたんだろうね。弱くても良いじゃん。そう思える人のほうが格好良いと思うよ。
http://d.hatena.ne.jp/kuraide/20101204