子は親を救うために「心の病」になる

子は親を救うために「心の病」になる
子は親を救うために「心の病」になる高橋 和巳

筑摩書房 2010-03-10
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白隠和尚は嫌いだが、彼が作った公案「隻手の声を聴け」を掴めた気がするのでメモしておく。
もちろん教科書的には「隻手の声」は「父母未生の自己」。意識的な「私」が生じる前にある、体験レベルとしての「主体」を問いかけている。まあ「エス」だ。でも、そんなことはどうでもいい。別に坊主になりたくて生きてるわけじゃない。この問いを「両手を叩くと音が鳴る。ではその音は、右手の音か、左手の音か」と書き換えたら、面白いことが思い浮かんだ。両手の音は、右手の音でも左手の音でもない。右手と左手が出会うことで、その瞬間にだけ生じる音なのである。「何かがある」ということは、何か二つのものが出会ったときの「現象」であり、出会うことが無ければ、実は右手も左手も存在しない。「隻手の声」の「隻手」自体が無い。両手が予めあって初めて「隻手」が生じる。もし片手しか無い人がいても、その手が何かと出会い、触れ合うことがないとしたら、「片手」でさえない。出会いの中で、手は「手」になる。
それを一歩進めると、クライエントが持ち込んでくる「問題」は、クライエント単独で生じる「問題」ではない。たとえそれが「人格障害」や「発達障害」と命名されるにしても、そこにはもう一人、そのクライエントと出会っている「誰か」がいる。二人の間に対象関係ユニットが形成され、その交互作用の結果、立ち行かなくなる「問題」が生じる。「音」は単独では鳴らない。「両手」が必要である。個人の障害に原因を還元しても、たぶん何の解決も生まないだろう。だって、そんなものは「片手の音」という幻想に過ぎない。子どもに障害があるから「問題」が生じるのではない。もちろん、親に障害があるからでもない。確かに、どちらかに障害があるかも知れないが、もし障害さえなければ「問題」は起こらず済んだと考えるのは早計だろう。「障害」は、単に「原因は私じゃないんです。あの子なんです」という言い訳に過ぎない。よく見よ。どちらも「原因」ではない。あるのはただ「衝突」や「抱え込み」という現象じゃないか。
出会いの中で生じる、一時的な「現象」として「問題」を理解すること。ユニットで分析すること。「現象」に過ぎないなら永続はしない。そこに「消音」の鍵がある。