臨床現場に生かすクライン派精神分析

臨床現場に生かすクライン派精神分析―精神分析における洞察と関係性
臨床現場に生かすクライン派精神分析―精神分析における洞察と関係性I.ザルツバーガー・ウィッテンバーグ 平井 正三

岩崎学術出版社 2007-05
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タヴィストック・クリニックのウィッテンバーグ女史。クライン派の教育部門で働く精神分析家だが、精神科医ではなくソーシャル・ワーカーである。アメリカのソーシャル・ワーカーや心理士は分析資格を取る方法がないので認知行動療法を習得するが、イギリスではソーシャル・ワークも精神分析に基づく。なにしろ、精神病圏の障害を持つ患者さんたちの生活をサポートする仕事だからだ。期待される領域が違う。
さて。クラインの理論はパソコンのマニュアルを読むようなもので、縁のなかった人にとっては全体像を掴む前に挫折してしまうだろう。しかも、たとえ読み切ったとしても「何のためにこういうことが書かれているか分からない」になりがちだ。冷暖自知。「冷たい・暖かい」を言葉で教えようにも、それを体験したことがない人には伝わらない。まず「冷たい・暖かい」を体験してもらう以外に教える方法はない。だからこの本のように実際の臨床場面を示し、それをどう考えていくか解説してくれる本はありがたい。意外と誰でも体験することだったりする。ただ、それまで言葉にすることがなかった。そこを分かってもらおうというわけだ。
ポイントは「受容的態度」。受容(acceptance)。これほど誤解されている言葉も珍しい。日本ではクライエントの語ることを無批判に聴くことと思われている。でも、英語にそんなニュアンスはない。どちらかと言うと、そんな言葉レベルではなく、体験レベルで受けとめるイメージである。話の内容は関係ない。話を聴いているときセラピストが感じる感情や空想。そこに重点を置く。クライエントは「何か」を体験している。通常はその「何か」を情報化し言葉にする。そのときは既に加工済み。クライエント自身の力で無害化され、身体化や行動化の危険性は低い。危険なのは、情報化できず「なま」のまま留まるもののほう。不安に脅える人の傍にいれば、その気配が伝わり、こちらも不安になる。その「言葉にならないレベルの交流」が精神分析の扱う領域。
一見「共感」に似ているが、全く違う。「共感」は「もし私がこの人の立場だったら」と想像し相手の気持ちを汲み取る方法だが、これだと当て推量になってしまう。当て推量は「投影」である。「クライエントの気持ち」と思ったものは、他でもない、セラピストが抱えている問題の反映に過ぎない。「受容」はそうではなく、何も考えず、どんな感情や空想が伝わってくるか観察する技法である。記憶もなく、理解もなく、欲望もなく。全く空っぽな「器」として、その場に自分自身を提供すること。誰も他にそれをやってくれる人がいないとき、この方法は効力を発揮する。まあ、「受容」してくれる人がいたら、わざわざ分析に来たりしないだろうけど。