夜と霧 新版

夜と霧 新版
夜と霧 新版ヴィクトール・E・フランクル 池田 香代子

みすず書房 2002-11-06
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精神科医ヴィクトール・フランクルの手記。アウシュビッツ収容所での地獄のような日々が綴られている。閉塞空間において、自己の意味を見出すには「外部」が要る。そのために要請される、スーパーバイザー(見渡す者)としての神。その神と向き合っていく実存主義。まあ、これ自体は今更ではあるが・・・。
敢えて久しぶりに「夜と霧」を読んだのは、「イジメ」について考察する資料を得るためである。極限状態で、なおも生き残るにはどうしたらいいか。イジメ問題のカウンセリングには「生きることに意味はあるか」の問いかけがある。イジメを受け不登校となり引き蘢った子どもにとって、学校が「イジメは無くなりました」と言ったところで復帰するわけがない。それは嘘だからだ。イジメはある。この社会は、根底において「他者の排除」によって成り立っている。その事実を目の当たりにして、「普通に学校に行き、普通に就職する」という生き方を放棄することで、なおも「生きるは可能か」と身体レベルで問いかけている。そして多分、それは可能ではない。
ここで思うのは「バベルの塔」である。旧約聖書の逸話。人間たちが高い塔を建築し、神のいる領域に近づこうとしたとき、神は言葉を多様化することでその試みを挫いた。なぜ世界に多種の言語が存在するかの起源譚。そのバベルの塔の結末が、民族闘争であり、まさにアウシュビッツだったのではないか。そう考えると、アガンベンの「弱い神」が可笑しく思えてくる。ユダヤ人が虐殺されていたとき、神は何をしていたのか。なぜ救い出すことが出来なかったのか。全知全能の神など、本当はいないじゃないか。アガンベンは言う。まったくその通り。神はいるが、神は弱いのだ。あの事件のとき、神はその光景を見ながら泣くしかなかったのだ、と。
しかしそれは詭弁だろう。大量虐殺の遠因は「バベルの塔」にあるのだから。人が互いにいがみ合うように「言語」を創造しておきながら、何を泣いているのか。児童虐待してきた親が、その子が思春期になり力を付け、家庭内暴力に及んだとき「なぜ、こんなことするの?」と涙するくらい愚かである。自業自得だ、バベルの神よ。
でも本当にそうだろうか。神は「被害者面」をしていたのだろうか。バベルの塔を破壊したとき、神が望んだのは何だったのだろう? 旧約聖書を読み返してみると、別の文脈が浮かび上がってくる。人々は「神は天上にいる」と思っていた。でも、実はそんなところにはいなかったのだ。高い塔を作ろうと、神に届くことはない。何か能力を向上させることが「神」なのではない。探す場所を間違っている。だから、神は「多様性」を創造した。画一的な能力を高めれば、やがてその社会は崩壊する。それぞれの人間の「生きる意味」が打ち消され、一つの価値に収斂するからである。一つしかないなら、それを体現する「完全な人間」が一人いれば良い。「自分より劣る人間は相手にしない」という態度が通用されれば、その集団において「自分」と「自分より優れたもの」の集まりになるだろう。そのとき「自分」は「他の人たちより劣るもの」として排除される。DSMを紐解けば、簡単に「診断名」が見つかる。「標準値」からの逸脱。あなたは「○○障害」だ、と。それが、現代社会の構造。
バベルの塔の逸話は「多様性」を表している。神は「分かり合えない他者との関係」の中にある。探すなら、そこで探してくれ。言葉が通じ合わなくても、そこで共存する道を探ること。前回の「市民社会」もそこだろう。「三人の人間が集まっていれば、そこに私はいる」と説いたイエス・キリストの言葉のように。