からだ=魂のドラマ

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために
からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために林 竹二

藤原書店 2003-07
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宮城教育大の林竹二学長。全国の学校を行脚し、子どもたちと対話し、「人間とは何か」について共に考え、出会う人たちの魂を揺さぶり続けた人。
1970年代の対談なのですが、すでに日本の「教育」の未来が見えなくなっている。絶望ですね。戦前の教育は文部省がありながら内務省が牛耳り、軍部によって操作されていました。それが戦後、教育行政が文部省の手に移り、そこで文部省が凍りついてしまうのです。だって「教育」について考えたことがなかったから。それでも、上から方針を押しつけるのではなく、教育現場から上がってくる要請に応えるかたちで行政が動いていた時期があった。戦後自由教育。義務教育、つまり「国には教育を与える義務がある」という憲法精神が生きていた。
義務教育は18世紀、フランス革命から生まれた「思想」です。政治の制度が王政から民主制に移行したとき、「主権としての市民」という新しい概念が現われた。「市民社会を運営するのは自分たちだ」という意識。それまでの、目先の耕作で明け暮れる「農民」には、そんな意識ありませんでした。つまり「市民」とはどんな存在か分からなかった。分からなくても、その「市民」を育てていかねば、市民社会は維持できない。社会に無関心な民衆ばかりになれば、いつかまた「王政」が復活するだろう。独裁者の下で奴隷的な生活を送るだろう。それを阻止するには「教育」によって市民を育成するしかない。それが義務教育。その「市民」を育てるために粉骨砕身するは国の義務。親のニーズとも関係ありません。だから、無料なのです。
林先生が小学校に行っても、工業高校に行っても、そこの子どもたちに「人間とは何だろう?」と問いかけるのは、この「人間」が「市民」を指すからです。まだ到来していない「市民社会」がどういうものになるかは見当がつきません。でも、その社会から落ちこぼれたり、切り捨てられている「市民」がいるなら、それだけでもう「市民社会」と呼べない。国民主権なんて嘘っぱちになる。主役でない国民がいる? それもまだ未成年者のうちに切り捨てられる? 語義に矛盾がある。あってはならない。
だから、荒れている高校を訪れ、机に打ち伏した子どもたちに出会い、言葉でぶつかり合う。「あんたの言うことはきれいごとだ」。ヤジに対して林先生は、そうかも知れない、と呟く。でも、それでも諦めて何が生まれる? 林先生は真剣に答え、生徒も真剣に問いかけ、授業が白熱し、子どもたちの目に光が輝いてくる。「ここに人間がいる」。林先生は確信する。この押し潰されてきた子どもたちは、まだ死んでいない。学ぶことへの飢えを持っている。人らしくありたい、と願っている。ところが、この子どもたちの「飢え」に応える制度がない。60年代半ばから、文部省の目は「子ども」ではなく、「財界」に行き始めた。自力で「教育」を考える力がないばかりに、指針を作ってくれる「誰か」を求めてしまった。「どうしたらいいですか、どうしたらいいですか」。うるさい。「未来の市民」である子どもたちと対話すれば良いじゃないか。答は足元にある。なぜそれができない?
林先生の、小学生向け「ビーバー」の授業。面白いです。川にダムを作るビーバー。一つの授業の中に「国語」があり「社会」があり「理科」がある。そして、ビーバーと人間、どこが似ていて、どこが違うだろう? 答のない問いかけをし、子どもたちは答なき道に踏み込んでいく。だってこれは、一生賭けていい「大疑団」なのだから。