語る禅僧

語る禅僧 (ちくま文庫)
語る禅僧 (ちくま文庫)南 直哉

筑摩書房 2010-11-12
売り上げランキング : 20050


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
現在恐山菩提寺の住職、南禅師の処女作。1994年から月刊誌『論座』に連載されていたエッセイ集だが、ホンモノは廃れない。まだ永平寺の修行僧をしていて、書いてることもやってることも青臭いが、仏道の核心を突いている。こういう方が出てくる限り、宗教は信じるに足る。その誠実さを信じても裏切られない。
やはりホンモノは、そこに神や仏がいない。自分を権威付ける「上位者」を持たない。ただ、過去に釈迦や道元がたどったであろう道を、自分もまたたどるだけである。「苦」という名の道を。「生きることは苦である」。それが仏道の根幹。なぜ「苦」なのかと言えば、本質を見ることを避けているからだ。だから「生きるとは何か」と問う。これには答はない。なぜなら、「生きること」とは「私が生きること」だからだ。他人の人生を問いかけているのではない。自分の人生の話。その「答」が、他人の人生の中にあるはずがない。「生きるとは何か」に答えるには、「生きること」を通してでなければならない。他人の「答」を生きてしまったら、それは「自分を生きる」にはならない。この人生そのものを自己表現とすること。そこに仏道がある。


 禅は古来、「不立文字」と言う。
 が、それは、言葉が要らないということではなく、
 自らの言葉のあり方を問いただせ、
 という挑発なのである。


こうした言葉が若い。こんな言葉を一度書いてしまうと、それから先どれだけ歳を取ることになっても、「若かった自分」がナイフを胸ぐらに突きつけ「お前は生きているか」と問いただしてくる。禅語はいずれも教義ではなく、挑発である。あとがきで「作家は処女作を超えない」と書いておられるが、それは超えてはいけないからだ。いつも初心に引き戻される。その後の南禅師の著書も、たるみなく本質とぶつかっている。どれもが光っている。光ってナイフとなり、さらに自分自身に突き立てられている。
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/