方法としての面接

方法としての面接―臨床家のために
方法としての面接―臨床家のために土居 健郎

医学書院 1992-03
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「甘えの構造」で有名な土居先生の治療論。改めて読んで恐ろしいのは、この本が1977年に書かれたこと。なのに、充分いまでも通用する。というか、今の臨床心理学の世界で「常識」とされていることは、何のことはない、土居先生のこの本から丸写ししたものに過ぎない。怖いね。30年経って誰も乗り越えていないのか? あまりに怠慢じゃないか。
土居先生は自分の「師」をマイクル・バリントに置いているから、そこかしこにバリント的な「バイオ・サイコ・ソーシャル」な視点が織り込まれている。まずこれが怖い。精神薬理学精神分析もシステム療法も包括してしまう視点になるからだ。風呂敷が広いわけよ。理屈ではそれが理想だとは思うが、初心のうちにこれが真似できるわけがない。出来てないのに口では「クライエントをその人全体で見る」と平気で言う、ずぶの素人が現場に出てきてしまう。「全体で見る」なんて、簡単に出来るわけがない。そもそもそれがどんな意味か考えたことある? まずどれでも良いから、一つだけの視点を深めておいてから(そして、一つしか深めていないことを恥じながら)「全体」に移ろうとしてほしい。還暦過ぎてからだよ、「全体で見る」なんて口にしていいのは。
あっさり読みやすい文体で心理療法の妙が書いてあるので、むしろ目を通しておくべきではある。そして、これを覆そうという「野心」を持ってほしい。病理水準の診断を「わかってほしい」「わかられたくない」「わかられている」「わかりっこない」で分類するのも、即興の実践でとても役立つ。踏み込み方の見通しが立てやすい。でも、盲信しないでほしい。フロイトの症例ドラを分析し「大人の都合で子どものセラピーがされている」と読解するのも本当だと思う。得てして、子どもの気持ちなんて放っておかれ、親の金での「塾通い」にカウンセリングは陥りがち。でも、だからって、親を敵対視する土居先生の態度はおかしい。それはそれで、逆転移じゃないかなあ。こういうところまで「心理療法の常識」と思い込まなくていいと思うよ。
しかし、この土居先生の治療論、根底から覆すにはどういうパラダイムを構築すれば良いんだろう? それを考えながら通読してもらえたら嬉しいです。