禅問答入門

禅問答入門 (角川選書)
禅問答入門 (角川選書)石井 清純

角川学芸出版 2010-05-25
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駒沢大の学長をされてる石井清純先生。さすが。禅宗のアウトラインを的確に示していて、禅問答の議論が「何」を巡るものなのか分かりやすい。どの問答にも意味がある。従来、一つずつ取り上げてお茶を濁されがちだった禅語を、その文脈に置き直し、師匠が生徒をどう指導しているか見取りやすくしてある。
じゃあ、何を目指し座禅を組み、問答を交わしているのか。それは「エス」です(笑)。「本来の面目」と言われたりするけどね。今風に言うと「今ここにおける主体性」って感じになるかな。この「主体性」は「私」ではない。「私」というのは、思い込みとか条件反射の塊。「私は〜である」って文章を書いてみそ。どれも「思い込み」だから。そんなの全然「今ここ」なんかじゃない。でも確かに何かが「今ここ」で生きている。即今目前聴法底。その、生きている「それ」が「主体性」。思い込みや条件反射に縛られずに、今を生きる。そういう可能性が誰にでも備わっている。それを仏教では「仏性」と呼びます。「それを見よ」と師匠たちは言う。
でも細かいところは石井先生と別意見かな。達磨と問答をした皇帝は、達磨の意図を汲めなかったとは思わないよ。だって、娘の尼総持が達磨のもとで修行してるじゃん。それは、達磨の「不識」が分かったからでしょ? それと「イヌも仏性は有るか」の問い。これは修行者が一般論に堕してるのではない。そんな、つまらない話なら誰も言い伝えたりしないよ。この修行者に共感する人たちがいたから、この問答は今も残っている。「私のような者でも仏になれるでしょうか」というギリギリの叫び。それが「イヌ」に喩えられているのに、まるで他人事を尋ねたように読解するのは、石井先生自身が禅問答を「他人事」と思ってるんじゃないかな。
で、禅の話はどうでもいい。これらの問答を「心理療法」として読んでも、やっぱり深い。クライエントに「主体性」を掴み取ってもらう(見性)には、まずセラピストが一切の偏見にとらわれず「今ここ」での主体性を示すしかない。実践で、しかも面接のその一瞬で、ときに無言となり、ときに言うべきことを言う。思い込みや条件反射に支配されているうちは、他人のセラピーなどおこがましいよなあ。へこむわ。
それと「発達障害の人には主体性が無い」と言ってる人がどこぞにいるらしいけど、「あんた」にも無いからね。僕にも無い。そんなものが簡単に「有る」と思ってるなら、趙州の「無字」を味わうが良い。