エスの系譜

エスの系譜  沈黙の西洋思想史 (学芸局Dピース)
エスの系譜  沈黙の西洋思想史 (学芸局Dピース)互 盛央

講談社 2010-10-07
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岩波『思想』編集長、互盛央。なんで講談社から本が出てる?? でも編集長をされてるだけあって「読者にとっての読みやすさ」を心得ておられる。それぞれの哲学者について掘り下げは足りないし、内容的にはネットでググれば出てきそうな教養レベルだけど、なにしろ主役は「エス」ですからね。「エス」を深めるために、他は簡略化し、嘘のように筋道だった切り口を披露している。ワクワクする。知的興奮とはこれのことだ。
まあ、心理学をやってる人間には「エス」は「フロイトエス」でしかないだろうけど、ちょっと哲学を齧れば、『自我とエス(Das Ich und Das Es)』の出版された1923年にマルティン・ブーバーが『我と汝(Ich und Du)』を書いている。そして、その中で「我と其れ(Ich und Es)」と出ている。ドイツ語で見てみ。どっちがどっちのパロディなんだ?って思うくらい。それもそのはずで、ドイツ哲学では大昔から「エス」が主題とされている。その文脈を知らずに読めば、アメリカ人みたいに「エスとは原始的本能のこと」程度の理解しか得られない。アメリカ人はドイツ人が嫌いだからね。でもそれだけじゃなくて、ナチス・ドイツが「エス」を理由に世界戦争を起こした経緯があるからなんだ。だから、1923年だよ、ユダヤ人たちが「エス」を主題に論じてるのは。どうすれば世界は戦争に突入せず、人類が互いに理解し合えるのか。そのために論じている。それを知らずに精神分析は語れない。
もし僕が「エス」について書くなら「Es gibt」から始めると思う。こちらのほうが分かりやすいから。英語なら「There is A」と書くところを、ドイツ語は「Es gibt A」と書く。存在を表す定型文「〜がある」が「それは〜を与える」となる。この「それ(Es)」とは何か。これが、ドイツ哲学の底流を流れている疑問。なぜそれが「疑問」になるかと言えば、デカルトの有名な「我思う、故に我あり」に関わるからだ。デカルトはフランス人だから単純に「Je suis (I am)」で「我あり」にしてるけれど、ドイツ人にはこれが解せない。ドイツ語では「Ich bin」とは言わない。ここは「Es gibt Ich」であるところ。「我あり」よりも先に「Es」がある。「我思う」も「Es denkt in mir」。思いは浮かんでくるのであり、意図的に思うのではない。だからフロイトの有名なテーゼ「Wo Es war, soll Ich werden」が出てくる。「エスのあったところから、私という感覚が生まれてくる」と。
ここから始まるドイツ哲学は、実は日本の西田哲学に似ている。旧約聖書は「Es werde Licht(光あれ)」から始まる。「光」が生じる前の主客未分な「それ」。純粋経験そのものが「エス」。こいつは言葉では捉えられない。「鐘が鳴る」という経験にはまだ「私」も「鐘の音」もない。主語も目的語も不在。言葉が介在して初めて「私は鐘の音を聴く」という意識になる。でもこの意識は、言葉によって捏造された虚構だ。最初の経験そのもの、プロセスとしての現象そのものである「エス」は言葉にならない。沈黙あるのみ。そして、その語られないものを基盤に人と人との交流が可能になっている。これが本来の「エス」についての考え方。差別を超克するための道。
ところが、ドイツ哲学のなかでこの「エス」を実体化しようとする動きが出てくる。物質化と精神化。物質化というのは要するに「遺伝」のことである。科学の名の下に「生命」を実体として取り出そうとする。DNAとかね。「生まれながらの障害を引き起こす遺伝子」とか。ほら、よくあるじゃない? で、これが体系だっていって「純粋アーリア人の血」というナチズムの温床となる。これも「エス」と呼ばれる(「エス」を「原始的本能」と考えるのはこっち)。でも、どの遺伝子が「正常」かなんて時代の都合でしかないし、それで差別に正当性を付与するなんてねえ。いま日本が突き進んでる道だ。
もう一つの精神化は「霊魂」のこと。1900年代の前半はまだ心霊術が「科学」と思われていた。Seele(たましい)のエス。本来の「エス」は、生々流転する自然活動そのもの(Physis)だから、確かに「いのち」とは呼べるけれど、それを取り出したり交信したりするものではない。ところが「たましい」として実体化してしまうと、その錯覚が心霊主義への道を開く。ユングが興味本位で降霊術研究をしてるのも、ただ彼が功名心に先走る性格だっただけでなく、ユダヤ人におけるエス問題の歴史を知らなかったのも大きい。「セルフ」という概念は、エスの精神化以外の何者でもない。だからナチスに取り込まれてしまう。フロイトと決別したのも当然かな。