新しく生きる―津守真と保育を語る

新しく生きる―津守真と保育を語る
新しく生きる―津守真と保育を語る津守 真 浜口 順子

フレーベル館 2009-12
売り上げランキング : 33585


Amazonで詳しく見る
by G-Tools
津守先生、脳出血で倒れられたのか。お身体ご自愛していただきたい。
津守先生が雑誌『幼児の教育』に寄稿されていた論文をいくつか抜粋し、それぞれについて教え子たちがコメントを寄せている本。愛育養護園での先生の活動や、お孫さんといっしょに遊ぶ様子ひとつひとつが「教育」になっている。子どもは自ら育とうとする力を持っている。教育者はその側にいて、それに付き合わせていただく。育つことの意義深さを子どもに教えてもらう。「教師」とは贅沢な仕事だ。
「そんな甘いこと言っても何も変わらん」という人は、その人自身「人が変わる」を見たことが無いのだろう。まあ、自分自身、何も変わろうとしないんだから、それに感化された子どもたちも変わらんようになるわ。不幸だな。贅沢な仕事に就く幸運を得ながら、ただ自分を不幸にしてるなんてバカだよね。津守先生の前で子どもは変わる。子どもは成長していく。それは津守先生の目がほんの小さな「成長」にも敏感なので、それを読み取ってくれる大人に出会えたことが子どもにとって嬉しい出来事となり、「成長」を進めるのだろうと思う。「出来ないだろう」という目で見れば、子どもは「出来ない」ようになっていく。「障碍」の「碍」は「目に入った石粒」を表すが、誰の目に入っているかと問えば「大人の側」なわけだ。
とくに心に残ったのは「保育の前・中・後」の話。保育をしている「中」では、何も考えている暇はない。即今目前の変化に付いていくことでやっとである。それはそれでいい。我を忘れて、保育に夢中になっている。それが「中」での関わり方だ。そして、その「中」を豊かにするために「前」と「後」がある。「前」は、「中」で集中するために緊張が高まる。保育者の個人的な事情はどこかに預け、「中」には持ち込まない。「我」を棚上げし、「我を忘れる」の準備に掛かる。「後」になってやっと、「中」を振り返るゆとりが帰ってくる。今度は起こったことの意味を、連続性を、テーマを考える。「たまたま」という偶有性が入り込まない思考。
もちろん僕も考えてるつもりだったけど、津守先生の読みは一回り大きい。「発達」の全体像を思い描く蔵識とイメージ力のすごさ。それを支えているのは、先生の場合「信仰」なんだと思った。その信仰は「愛」ではなく「知」。神の「知」に比べれば、人は無知。その神のスーパーバイズを先生は持っておられる。