『教行信証』を読む

『教行信証』を読む――親鸞の世界へ (岩波新書)
『教行信証』を読む――親鸞の世界へ (岩波新書)山折 哲雄

岩波書店 2010-08-21
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おすすめ平均 star
star門徒の家に生まれ読まねばならぬ「教行信証
star根本的な誤解
star親鸞をより知ることができる

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山折先生、座禅を推奨してるだけかと思ったら、今度は親鸞ですか。確かに親鸞は「歎異抄」を読んで何か分かったようなことを書く人たちが多いですから「教行信証」を押さえるのは大切ですね。歎異抄は所詮、付き人唯円の「チラシの裏」。しかも「異端」討伐が目的ですから、お師匠の言葉を都合の良いように引用している。こんなの付き合うだけ無駄です。蓮如が禁書にしたのもむべなるかな。
親鸞のライフワーク「教行信証」は岩波文庫で手に入るとはいえ、やはり大著。補助線も引かずに読み出せば、その引用の大海に沈没するのは目に見えてます。山折先生も初めは平家物語やらと比較し、あまり実りない考察にページを割いてられますが、徐々に本領発揮してくるところがいいですね。2つのガイドを想定し、親鸞が自分の考えを変遷させていく様を推理してくところはワクワクしました。エンジンがかかってからは、どの段落も自分の仮説を支持してくれる感触に打ち震えておられる。そうですね。先生、金脈を掘り当ててますよ。
なぜ親鸞がこんな大著を推敲し続けねばならなかったか。それは大経にある「ただし五逆を除く」の制限事項。「父母殺しや僧侶の殺害者は、私の浄土に入れてあげない」という、心狭い弥陀の誓い。もしこの前提が阿弥陀の立場だというのなら、悪人は未来永劫救われないのだろうか。人殺しはずっと地獄をさ迷うのか。釈迦は観無量寿経で、父親殺しである阿闍世王さえ救われる方法として念仏を薦めたのではないか。この不整合性。親鸞にとってこのことが生涯の難問としてのしかかっていた。
それがどうした?って内容ですね。どうせお経なんて絵空事。実在の釈迦の言行はアーガマ・スートラだけで、それ以降の教典は教団の箔付けのために捏造されたに過ぎない。お釈迦さまさえ知りもせぬ「弥陀の誓い」など、どう転んでも同じですよ。なのに親鸞はこだわった。なんというかな、臨床心理学に喩えれば「虐待の世代間連鎖」みたいなことでしょうか。虐待を受け育った人は、自分の子どもにも虐待してしまう連鎖。統計的な根拠はないんですけどね。マスコミが嬉しそうにバラ撒いちゃった誤解だから、それを信じて虐待を止めれなくなる人たちがいる。社会全体が自己暗示を掛けちゃってるわけです、「虐待は連鎖する」と。暗示は、社会に普及すると実効性を持ってしまう。「私、B型だから」という血液型の言い訳と同じですね。ミームに心を食われてしまう。
だから親鸞さんも、このミームと闘ってるんです。「悪人」というカルマは何度転生しても消すことができない、という時代の自己暗示。この幻想を打ち破る。そのために「釈迦が説いた」とされる経典群の矛盾点を次々と突いていくわけです。なんて「外道」な振る舞い。釈迦をも恐れぬ行為。ここまでしなければならなかった理由は、山折先生は書いておられませんが、ただ一つしか考えられません。親鸞自身が、誰かを殺したことがあるということなのでしょう。それも、大切な誰かを。阿闍世王のように。そして叫んでいる、それでも私は救われるのか、と。