生命のかたち/かたちの生命

生命のかたち/かたちの生命
生命のかたち/かたちの生命木村 敏

青土社 2005-10
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star生命とかたちと時間

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「廃れない」とはこういうことだな。木村敏先生が京大を退官した頃の論文集。1992年に出されたものが、何度も新装版になってます。哲学者は、若い頃は「愛」について語り、家族を持つと「社会」について語り、老いては「死」について語る。そのうちの「死」についての考察が集められている。
結局、人間は年老いてくると寂しくなってくる。もうじき自分はこの世界から引退しなければいけない。その頃になるとフロイトの「タナトス」が何を指していたのか見えてくるようですね。どう考えれば「死」を受け入れることができるか。メメント・モリ。「命」の様相を一段深めて感じ取れ、と天命が下る。我々は「命」を個々の身体に収まっているもののように考えている。でもその「個々の命」は、喩えてみれば「波」のようなもの。「命」が現象として「かたち」を得たに過ぎない。「波」はやがて砕け散る。しかし視点を広くとれば、「波」の下には「海」がある。「波」が消えようが、「海」は変わらずそこにある。この「海」こそが「命自体」。「個々の命」が姿を失おうとも「命自体」は不生不滅。この次元に自らを置けば「死」もまた、恐るるに足らない。
なんだか、やせ我慢に見えるんですけどね。まだその「時節」でないから分からないや。ただラカンの「現実界」がこの「命自体」なのは本当だと思います。「小出くんみたいな若造に分かるまい。分かるのは、この私だよ」という敏先生の矜持が見て取れますね。ええ、ラカンも60歳過ぎから「現実界」の話を始めますし、le reel(現実界)がres(モノ)なのは「das Ding(物自体)」というカント用語で説明してるから自明。「小出くん」は頭も悪いしカントなんて読めないから、これが「physis(生命そのもの)」の言い換えだと知らないんでしょう。もちろんハイデガーの「存在(Sein)」もそうですよね。「存在者(Seiendes)」とは「波」のことで、「存在」はそれを支える「海」。敏先生は聡明でいらっしゃる。
だから誤解を解いておくと、ラカンの「主体(S)」は象徴界にあるのではありません。主体の「S」は「エス」であり「私」ではない。つまり、人間社会的な「現実」(=象徴界)にあるのは、片割れである「欠けた主体($)」。「海(エス)」は自らの表現に「あなたと私」という関係性の形態を取る。「私($)」だけでは何も表現し得ない。「私」は誰かとの関係の中でしか「私」を表現できない。表現しているときには、すでにそこに「他者」がいる。そうやって表現されているものが「生命そのもの」。関係性の中で表現される事々無礙法界。神自体を「存在」と考えることで、「我々」はその神の表現体と見なせるとするマイスター・エックハルト否定神学
口が滑りました。確かにこれは、「死」を意識するようにならないと見えないかも知れません。日々の風景のここかしこに「死」が潜んでいるのを感じ取って初めて「現実界」に近づける。でも、どのクライエントさんも、「学校に行けない」と悩む小学生であっても、そこにあるのは「生きて死ぬとはどういうことか」の問いだと思います。「海」の在処を尋ねている。それを「波」しか見ずに応えても、何も響くわけがない。
抗うつ剤の効果とうつ病の身体症状とが「同じもの」という話、面白かったです。「命」はいつも正しいことをする。それを「症状」と思い邪魔するのは人間サイド。肝に銘じておきます。