ワインバーグのシステム思考法

ワインバーグのシステム思考法 ソフトウェア文化を創る〈1〉
ワインバーグのシステム思考法 ソフトウェア文化を創る〈1〉G.M.ワインバーグ 大野 徇郎

共立出版 1994-07
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ジェラルド・ワインバーグはシステム療法家バージニア・サティアの後継者で、どの本も面白いんだけど、この本はどちらかと言うと理論中心で硬めの本です。ワインバーグさんの本業はシステムエンジニア。コンピュータのプログラムを作る仕事で、いろんな企業のアドバイザーも兼ねている。企業ごとの風土を観察し、問題解決に優れている思考法とは何かを考察している。マネージメントの本だとも言えるし、思考とは何かの哲学書とも言える。4巻本ですが、一冊目だけで十分目から鱗が落ちます。
人間の「考え方」には5つのレベルがあります。レベル1は「結果だけを見ている思考」。たとえば年間の犯罪率をグラフに並べて「増えた・減った」と一喜一憂する。あるいは収益を経年比較して「上がった・落ちた」と騒ぐ思考。これは、結果を見てるだけですから、それだけです。何も解決に結びつかない。すぐに精神論に飛躍します。「もっと気を引き締めるべきだ」とか「頑張って努力しよう」とか。それでは解決にならないんだけれど、翌年改善すると「この方針で良かった」と安堵し、もし悪化すると「もっと頑張れ」とゴリ押しする。自分の取った対策が有効だったかどうか反省する機会が訪れません。「これだけ言ってもなぜ変わらないんだ?!」と一人で怒って勝手にストレスを抱えて苦しむ。可哀想な私、それがレベル1。
これがレベル2になると「原因を探す思考」に変わります。一つの「結果」ではなく、複数の「結果群」が視野に入ってきます。たとえば「学力テストの順位」と「高齢者の自殺率」。これは世界的にも地域的にも「気温が低い地方ほど高くなる」という特徴がある。寒い地域では家族や社会の団結力が強く、自分自身が他の人の役に立つことを美徳としやすい。人が助け合わないと、厳しい自然に太刀打ちできないのですから当然です。「自分のため」の努力は長続きしなくても「人のため」だと人間は無理ができる。それには良い面もあれば悪い面もある。物理的に「人の役」に立てなくなったとき、自己評価の低下が著しい。自殺率が高まる原因です。
ただ、「原因を探す思考」も解決には結びつかない。「原因」には、その「原因」を引き起こす、さらに深い「原因」があるからです。「原因」の確定にかまけると、遡及的に原因追及を反復するばかりで「そうなっても仕方ない」という結論しか出ない。無駄です。そもそも「気温が低い」が原因なら、解決策は「気温を上げること」でしょうか。それは無理でしょう。
レベル3の思考は、この「原因」を複数的に考えます。「相互作用を見つけ出す思考」です。寒い地域で高齢者が全員自殺を選ぶわけではありません。むしろ、たいていの人は幸せに暮らしている。それは何が違うからか。人によって理由は違うでしょう。周囲が「経験者」に敬意を持っているからかもしれない。その人が「人の役に立つ」以外にも「自分の趣味を楽しむ」という価値観を持つからかもしれない。いろんな「要因」が重なり合って「生きることを楽しい」になっている。「結果」は、複数の因子による「現象」に過ぎません。どれか一つが「ある」とか「ない」とかでは測れない。要因の組み合わせは人それぞれで、対応も人それぞれ。
ここあたりから問題解決が可能になります。相互作用であるなら、個々の「要因」はそのままでも、今現在において介入する策は取れる。カウンセリングも、基本的にはこのレベル3で思考しています。力動や機能分析、コンステレーション、システムと言った、各種心理療法の用語はいずれも「相互作用に着目する」ということです。既に有るものを考慮に入れながら、その組み合せに手を入れていく。ブリコラージュな仕事。これで7割がたの問題は解決する。
レベル4では、この「相互作用」も複数的に扱います。単純に「良い相互作用」があるのでも「悪い相互作用」があるのでもない。「相互作用」は常に過渡的。システムが変容しつつある途中経過のスナップショットです。それだけを見て「良い/悪い」の評価は出来ない。レベル4は「プロセスを扱う思考」。結局どこに向かうことを望んでいるのか。そのビジョンをもとに現在地を振り返る考え方です。海図を取り出し、航海の道筋を見通す。すると、今起こっている「問題」は、軌道修正のための「ヒント」になります。船体を補修すべき時期が来た「信号」かもしれない。難所に差し掛かりつつある「合図」かもしれない。「問題」は隠蔽すべき悪事ではなく、現状分析の「チャンス」と捉え直される。未完成さを自覚しているからこそ、「困難」はミッションとして共有され、乗り越えていくことが集団の豊かさに繋がっていきます。
そして最後のレベル5は理想的な状態です。プロセス自体が複数化されます。ビジョンは一つではなく、目標も設定されません。今風に言うと「マインドフルな思考」。古風にいうと「Here & Now」。何しろ、レベル4まで来ていれば「問題」は問題とされない。カウンセラーが呼び出される理由がありません。これがレベル5になると、今現在において、為すべきことを為すことでメンバーが充実している。そういう「風土」になっています。「致命的な問題」は、起こる前に避けられます。経験を積んだ登山家がルートを選ぶとき、そのときそのときに微妙な修正を繰り返しながら、結果として「遭難する確率」をゼロにしている。小さな困難はあります。むしろ、その方が楽しい。その「困難」の変化を見ながら、時には大きなルート変更を行うので、危険な選択をせずに済む。複数のルートを思い描いている。数値目標を持たないので、余分な苦労を背負いこむこともなく、持てる力を生かしている。作りたいものを作っているから、アドバイザーが雇われることもない。・・・ああ、そういうところで働きたいなあ。


そんなわけで、ワインバーグさんがアドバイスを求められるのは、レベル1やレベル2の会社。そこのコンピュータ・システムの改善を求められるのだけれど、ちゃっかり経営陣の「ものの考え方」まで改善しちゃいます。一気にレベル5は無理なので、レベル1のところはレベル2に、レベル2のところはレベル3に。それだけで業務が円滑に動くようになる。もちろん、強い抵抗に遭う場合もあるけれど、そんな会社は時流に任せて潰れていただくしかない。潰れることもプロセスには必要。プロだから冷たいです。そして「自分が変わりたい」と思っている経営者には優しいです。・・・うちの病院も診てくれないかしら。

フロイトとベルクソン

フロイトとベルクソン
フロイトとベルクソン渡辺 哲夫

岩波書店 2012-06-28
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フロイト全集訳者のひとり渡辺哲夫先生によるフロイト論。話は小林秀雄の講演から始まる。講演のなかで、この希代の天才は「フロイトベルクソンは人間の本質に気づいていた」と述べる。いったい何に気づいていたのか。「人間の本質」とは何なのか。確かに、この同時代人の類似性を指摘した者は少ない。ほぼ、いない。狭い了見の専門家たちしかいないからだ(ドゥルーズがやってた気がするけれど、ここは渡辺先生のノリで)。だから、この小林秀雄の言葉は後代の宿題として残されている。この本は、この「謎」を解く推理小説のような著書である。
とはいえ、渡辺先生の力量不足が目立つばかりで、話は進展しない。面白い「謎」なんだけどね。ダメだわ、「ただのお医者さん」じゃあ。年表を並べて二人の間の接点を探ろうとするものの、挫折。何人か共通する交友関係(ユングとかミンコフスキーとか)は出てくるけれど、そこまで。そりゃあそうだろう、僕自身の人生論的支柱は忌野清志郎先生であるが、直接接点はない。コンサートに行ったこともない。年表で見つけられる物事ではない。事実確認を始めれば何かつかめると思っているあたりで、渡辺先生の凡庸さが出てしまってて、興が殺がれる。
ただし、ベルクソンの『物質と記憶』に出てくる「逆円錐の図」に着目してるのは的に近い。いい線を行っていると思う。読んでいても眩暈がしてくる。人が死と向き合ったとき起こる「走馬灯体験」。自分の全人生が一瞬の間に想起されるパノラマ。これは、人間の精神が現実との接点を失い、そこでの視野狭窄を逃れたとき、内奥に蠢く生命活動そのものを見てしまうからだ。そう直感するベルクソン。まず、これは間違いあるまい。現実への神経集中の背面には、無時間な想起の塊が控えている。ただ人は、それに普段は気づかず、過ごしているだけだ。
この部分がフロイトでは「エス」になる。一般に知られる精神分析の「快感原則 vs 現実原則」の図式をフロイトは信じていない。もし人間の奥底にあるのが、快感を求めようとする幼児的な性向であるなら、戦争体験者が頻繁に「自らの死」をフラッシュバックするわけがない。夜、汗まみれになり悪夢から目覚める日々を反復する。フロイトが『快感原則の彼岸』で描いているのは、こうしたPTSD系の症状をどう読み解くかである。人間の無意識に潜む狂気は「自らの死」を望んでいる。この気味悪さ、おぞましさに分け入るのがフロイトの真骨頂と言える。
だから「このベルクソンフロイトの見据えたものを見よ」とする小林秀雄の態度は正しい。現実適応なんてものは、所詮数十年の「先送り」に過ぎない。そうではなく、「心」そのもののあり方、生命そのものの不可思議に触れるのが学究の徒の使命であろう。それこそ、死んだら分からなくなる。生きている間に参究せねばならない一大事だ。ところが渡辺先生は「これで魂の不死が証明された」と愚にもつかない方向に筆を進ませる。「還暦を過ぎると、そうしたことに気づくものだ」とはまた、くだらない60年を過ごされたものだ。どう見てもフロイトは「死は死である」と直面化させてるんだけどね。見えないのかね、可哀想に。
あと、「投射」のくだりは論が捻じ曲がりすぎて納得できない。「心」にとって「内界/外界」の区別が無いというのは同感である。「精神内界がどうのこうの」という論は、フロイトを知らないニワカ心理学者の戯言だというのはその通りである。ただフロイト精神病者の投射を「抑圧しきれなかったものが外界から回帰する」と記載したことに異を唱える理由にはならない。幻聴にしても、させられ体験にしても「外から自分に入り込んでくる」という患者さんの感覚に間違いはない。つまり、投射が「内と外」の区別を生む。「健康な人たち」というのも、精神病の亜種なのである。逆円錐図の平面Pが鏡になり、そこに自らの円錐が映り込む。これを人は「外界」と呼び、自らの狂気を「外部」に見ることで自然を制御しようとし、隣接する他国に憎悪を向け、「前向きで生産的な社会」という破廉恥なものを構築しているのである。フロイトならそれも含めて「投射」と呼ぶだろうし、バタイユの「企て(projet)」もそれのことじゃないか。


大部分は小林秀雄ベルクソンフロイトの引用からなり、そこに渡辺先生の感想がついている小論ではある。けれど、この「引用」は絶対に面白い。そこを自分で読み解いていければ、と思える「好著」である。喩えてみるなら、名探偵がまだ出てこない難事件を渡辺先生は嗅ぎ取っているのに、自分自身は「名探偵」になれず、読者にその地位を譲っていると言えるだろうか。

はじめての選択理論

カウンセリングはアドバイスをするかしないか、という議論を聞いて「おかしいなあ」と思ったのでメモ書き。たぶん「非指示」ということを誤解してるのだと思う。「指示」と「アドバイス」は別物である。アドバイスは ad-vise であり、「〜に-目を向ける」が原義である。つまり、相談に来た人に対し「新しい視点」を得てもらうのがアドバイスだ。その人が気づいていなかったところ、あるいは見るのを避けていたところに目を向けてもらう。それはその人の中にある邪悪なものかもしれない。弱々しく情けない姿かもしれない。打ちひしがれた「小さな子ども」かもしれない。そうした何かに気づいてもらうとき、それは「アドバイス」なのである。逆に「指示」は direction。「方向付けること」なので、相手の行動を操作する。洗脳である。
そんな感じに、日本語の語感のまま心理療法の用語が解釈している場合があり、注意が必要だ。たとえば「行動療法」の「行動」は behavior。これは action ではない。behavior は「あり様」を指す。よく心身二元論というか、「こころ」と「からだ」を分ける心理学者がいて「脳からでは心のことは分からない」と言ったり、それに反対して「東洋では心身一如だ」とか訳の分からないことを言う人もいるが、何の話をしているのか考えたことがないのだろう。心身は視点の話である。自分の「こころ」は自分の内側から見たときに見えるもの。相手の「こころ」は相手に視点を移してから分かるもの。反対に、相手の「からだ」は自分から見たときに見えるもの。自分の「からだ」は外から見たときに分かるものである。「こころ」と「からだ」は同じものだ。どの視点から見ているか、が違うのである。分けられるものではない。


behavior は、そうした「こころ=からだ」を外から観察するときに見えるものを意味する。表情や声の震え、気持ちの揺れ。それらをひっくるめて behavior と言う。だから、行動療法は心理療法であり、アメリカで心理学部を卒業すれば、まず「行動療法家」と呼ばれる。
スキナーは behavior である言語行動を大きく分けて、タクトとマンドに分類した。タクトは「状況を叙述する言葉」であり、マンドは「相手に何かを要求する言葉」である。先の分類でいくと、アドバイスはタクトを使うが、指示はマンドを使うことになる。なぜ指示が不適切なのかは、マンドを使うとマンドを強化するからである。要求ばかりされてきた人間が学ぶのは、他人に要求することである。自分は何もしない。「指示」はメタレベルで「他人を操作すること」を強化する。結構物騒である。何より僕自身、人に操作などされたくない。だから使わない。
けれど、物事の新しい視点を示唆されるのは好きである。この世界が面白くなる。それは「知識」ではない。「視座」である。切り口とも言える。それがアドバイス。木片に仏像が埋まっているのではない。仏像が彫り出されることで、木片に仏が宿るのである。


人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論
人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論渡辺 奈都子

ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012-12-26
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1970年代にアメリカで流行った「現実療法」の普及本。やっと日本で咀嚼されるようになったと思ったら、とても気持ち悪い「自己啓発本」になってました。「他人を自分の思い通りに動かしたい」。そういう外的コントロールをする人がいて、その周りの人間をどんどん神経症に落とし込んでいく。そのコントロールを跳ね返すために相手に反撃すると、同じ外的コントロールの罠に落ち込み、負のスパイラルから抜け出せなくなる。蟻地獄のようにおぞましい「この世の姿」が現実療法の一大事だと僕は思ってます。「健康な人」が周囲に苦しみをばらまいている。
でも、それが「外的コントロールをやめましょう。みんなで上質世界に住みましょう」というお題目に落とされてしまうと宗教ですよ。これでセミナーをやれば儲かるでしょう。けれど、釣りバカ日誌のハマちゃんの「僕はあなたを幸せにするつもりはありません。でも、あなたが結婚してくれたら僕は幸せになります」というプロポーズを「これこそ、内的コントロールの素晴らしい言葉!」と呼ぶ感性が信じられません。十分、外的コントロールですよ。脅してます。しかも相手を「自分が幸せになるための道具」と見なしている。バカじゃないですか?
ただ「behavior」については正確な考察がされています。自動車の4つの車輪に喩えるのは、他のアプローチの場合でも応用性が高いと思いました。

みんなのベイトソン

みんなのベイトソン
みんなのベイトソン野村 直樹 BJORN

金剛出版 2012-04-13
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ベイトソンの学習理論には四つの段階がある。そのことをしつこく何度も書いている本。説明が下手だからわかりにくい。そもそも小説仕立てなのがいただけない。言わんとすることは分かるよ。「学習」、つまり「新しいことを知ること」は一人ではできない。自分の中に探しても無駄で、必ずソクラテス風な対話の中で発見される。しかも、教える方と教わる方の役割があるように見えても、「学習」が起こるときには、どちらもが何かを知り、自分自身のあり様を変化させることになる。互いに「変容」が起こることをベントソンは「学習」と呼んでいるんだ、と言いたいんでしょ? 様々な対話状況を描いて「変容」の様子をメタレベルで示そうという意図は分かる。でも、そもそもの物語りが下手。ただの自作自演だから、話が膨らまないんだよ。


そういうわけで、読むのが苦痛だったけれど、さすがにベイトソンは面白い。「学習」のレベル0(ゼロ学習)は、学習の結果の状態。九九が言えたり、自転車が漕げたりするのはレベル0。出来ていることは、いくら繰り返しても「変容」にはならない。それに対し、新しいことに挑戦し、何かを身につけようとするのがレベル1。「ゼロ学習の学習」ということで、一般的な「学習」のことです。初めて坂道を自転車で登るとき、立ち漕ぎをしてみるとか蛇行するとか、いろいろ試行錯誤し、最適な方法を見つけようとする。そのプロセスが「レベル1」。
すると「レベル2」は、そのレベル1を見つける方法自体を模索すること。学習の仕方の学習。一段レベルが上がります。三年坂の登り方を身につけたなら、その「身につけ方」を分析して、七年坂の登り方を効率良くする。「般化」や「転移」と言われるもの。このレベル2が出来るようになれば「一を聞いて十を知る」のも容易。しかし、ここまでは誰もがやっていること。
ベイトソンはさらに人間には「レベル3」があるだろう、と考えている。レベル2自体を新しくし続ける方法。簡単に言えば「初心に帰る」ということです。身につけたものをご破算にして、いつも新鮮な気持ちで事態と向き合い、それと関わることを「学習」し続ける境地。芸事で言えば、型を身につけるのがレベル1で、新しい演目ごとに「あるべき演じ方」を編み出すのがレベル2。そして、その「型」に囚われず、打ち破り、自由な表現方法を生み出すのがレベル3。「学習」には、こうしたレベルの違いがある。


読んでいて思ったのが、カウンセリングと心理療法の違いです。この二つは混同されがちだけれど、狙いが違う。カウンセリングは、持ち込まれた問題を解決するのが目的です。ベイトソンを使うと、クライエントはレベル0の状態にいる。「不安を感じると、足がすくんで外に出れなくなる」といった「ゼロ学習」の状態にある。これを「不安を感じるとき、ハミングをして、少しだけリラックスする時間を取る」という別の対応に置き換えていく。新しいコーピングにチャレンジしてもらうから、これはレベル1。どういう場面ではどういうコーピングが一番落ち着きやすいか、いろいろ実験してもらう段になるとレベル2。こういうのは「カウンセリング」です。
心理療法はこうじゃないですね。心理療法は名前の通り「こころ」を扱います。自分が感じている不安は、いったいどんな気持ちなんだろう。自分の「こころ」と向き合っていく。描画やプレイを通してその気持ちを表現してもらったり、言葉にしてもらったりする。「不安」という言葉でひっくるめてしまったもの・実体化してしまったものを、初心から眺めなおす。そういう作業なわけです。つまりはレベル3。ロジャーズのストランズのように、自分の感情と向き合うにつれ、もともとの「問題」から距離が置けるようになる。「不安」であることと「外に出ること」は別のこと。「不安になってはダメだ」と自己否定している間は「不安」が募る。でも「不安は不安」と思えると「外に出ること」は出来る。そこあたりが心理療法のポイントになるかな。
しかし、うまい人はどちらもやってるから、分けること自体は意味がないなあ。でも、面接の中で自分が何をやっているのか道に迷ったときに、二分法を使うとコンパス代わりになるよ。で、進む方向が見えたなら、また初心に戻るべし。

科学的とはどういう意味か

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)
科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)森博嗣

幻冬舎 2011-06-29
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達磨が四人の弟子たちに禅宗を伝えた「皮肉骨髄」のエピソードがある。達磨が弟子たちに仏教の要所について尋ね、弟子たちはそれに答える。免許皆伝の最終試験である。まず道副が「言葉にならぬところを言葉にしていく」と答え、師である達磨は「お前には私の皮が伝わった」と印可する。「たとえ極楽浄土を見たとしても、そこに行こうとは思わない」と言う尼総持には「肉が伝わった」、「精神作用は現象であり、そこに魂など無い」と言う道育には「骨が伝わった」と達磨は微笑む。そして最後の慧可が黙って達磨に一礼したところ、「お前には髄が伝わっている」と認め、達磨は慧可に自分の袈裟を与えた。
道元の解説を待つまでもなく、この四人に優劣はない。いずれも達磨の正統後継者である。つまり、達磨自身の伝える正法を四つの側面から弟子たちが解説している。それは、どんなふうにだろう? 実はこれには「伝える」という教育の基本が語られているのではないだろうか。
たとえば、高校の数学が実生活で役立つかと言われれば、何の役にも立たないだろう。sin や cos の二乗やら三乗やら、高校を出てから使ったことがあるだろうか。一度もない。けれど「だから、学校での勉強は無意味だ」と結論づけるなら、浅はかである。学校での勉強は「皮」なのである。皮の下には「肉」がある。「肉」とは「分からないことを筋道だてて考えていく」という思考である。つまり「科学的に考える」ことだ。そして、その下には「骨」がある。「人生の困難を、考えながら乗り越えていく」という態度・覚悟。その態度がどこから来るかと言えば「髄」。「生きることは、うまく行っても行かなくても、結構楽しいものだ」という本質。それが染み付いている。そういう身体が得られる。これが森博嗣が言う「科学的」なのだと思う。


ただ、今の教育は高校生くらいで「理系/文系」に人を分けてしまう。これは本来、大学に入るための方便で過ぎない。でもこの方便は、「文系」とされた子どもに「自分は科学が苦手」という意識を植え付ける。単に大学だけの話ではなく、一生において「科学は苦手」という自己暗示に掛かってしまうのである。バカだねえ。結局、科学への拒否感が「自分で考える」という習慣を育てず、「人の顔色を見て一喜一憂する人生」を歩むことになる。不満はたらたら言うが、何事も人任せで、自分では問題と向き合っていかない。「文系」とはそういうことではなかったのに、いつの間にか「文系」がそういうタイプの集合体となっていく。
この本で面白かったのが、森先生が「理系のいいところ」を挙げればあげるほど「アスペルガー障害の人たち」になり、「文系の不便な面」を挙げるほど「群れたがる定型発達の人たち」を描いてしまうこと。別にそういう話をしてるわけではないのに、これって、社会で「文系」が多数派になってきたばかりに、「理系」を「発達障害」として排除し出したってことじゃないかと思えてきた。科学的に考えようとする芽が育ってきた子どもに「この子は一方的なコミュニケーションをする。空気が読めてない」とか言って、その芽が潰れてしまえば「定型発達」、その芽が頑固に残れば「発達障害」と分類してさ、そうすることで「文系社会」を守ろうとしている。お互い足の引っ張り合いをする社会を、なんで「正常」と思うんだろうねえ。優秀な「理系」を育てる力が社会からなくなり、「made in Japan」が優れた工業製品だった時代が終わる。でも、「心理学」って「文系」が来ちゃうから難しいねえ。自分で考えようと・・・。


話がずれた。皮肉骨髄である。何かを伝えるとしても「髄」だけ伝えることはできない。伝わるときは「皮肉骨髄」として伝わる。直接教えられるのは、そのうちの表面の部分、心理療法であれば「技法」のところ。「皮」のところしか教えることはできない。でも、教わる側には、その「皮」の下にある「肉」も考えてほしい。テクニックを伝授しているけれど、そのテクニックがどういう発想から出てくるのか。そういう発想が出てくるには、どういう態度を無意識裏に抱いているか。それにはどういう生き方を身につければいいか。
で、どういう生き方かを言葉で言ってみても意味がない。ただの押し付け。相手が実感として感じるようになるには、それこそ「皮」のところ、日々出てくる「悩み」からアクセスし、やがて肉となり骨髄へと浸透し、その人なりの生き方がつかめていけば良いんだけどね。

精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際

精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際
精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際ブルース フィンク 椿田 貴史

誠信書房 2012-11-15
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難解とされるラカン派の分析を分かりやすく解説した本。というか、ラカン派は難解ではない。難解なのは下手な翻訳をするからで、実際にフランスに行ってトレーニングを受けたアメリカ人のフィンクには「とても当たり前なことをやってるだけですけど」と戸惑いが見えます。ほんと、基礎通りの精神分析技法が書いてある。臨床家にはどれも「あるある体験」な理論です。
でも他派とは大きく違っている。その部分から読んでいくと、ラカンが何を目指していたか、分かりやすくなるかな。まず、自我心理学。アメリカに精神分析が渡って出来た自我心理学とラカン派の違いは「強い自我」という考え方。ラカン派はしません。「強い自我」というのは「強いアメリカ」なわけです。原始的な無意識の力を自我主導でコントロールしていくという、アメリカンな発想。神経症になるようなのは弱い人間、発達の未熟な人間だ。それを分析家が正しく指導していく。そういうスタンスです。「圧政的な王様に対し、民衆の声を翻訳し届けていく」としたフロイトとは真っ向反対。そりゃあ、そうでしょう。精神分析は、ナチスの弾圧を受けたユダヤ人たちの哲学だから。フランスのラカンも、パリ占領時代にナチスと闘ってたので、こういう「強い自我」にはうんざりしてます。
次に対象関係論の投影同一視という考え方。クライエントの病的な部分が投影されて分析家側の健康な部分が侵食されるという、「そりゃあ、ただの逆転移でしょう」とフィンクはバッサリ切り捨てます。分析家もまた病気なだけで、その病気の部分が活性化したからと言って、その責めをクライエントに押し付ける態度にしか見えない。「誰もが不完全な人間なのに」と、あの世でフロイトが嘆いていそうです。
そして、間主観性心理学の第三主体。僕はラカンの「大文字の他者」に似てると思ってるのですが、これもフィンクは「想像的関係に過ぎない」とけちょんけちょんに貶します。確かに、いろんなイメージが面接中に浮かび上がってくるし、そのイメージはそこにいる二人の関係によって生起したものです。ただ、それだけなら想像的関係、自分がイメージしてるだけの思い込み。それに捕らわれると、クライエントが本当に語っていること(パロール)から目を逸らしてしまう。しかし、どこまでもパロールに準拠するのが精神分析である、と。
でも最後のが分からないなあ。フロイトの「漂う注意」はむしろ、セラピスト側の自由連想が治療ツールであるという考え方です。ラカンも「真理はどちらが語ってもいい」と言ったのは、ここあたり。「イメージが真の対話を阻害している」というのがシェマLだから、フィンクの言わんとすることも分かる。間主観性心理学がまだ、想像的関係と象徴的関係の区別が出来てないだけのことで、方向性はラカン派と同じだと思うんだけどね。
ただ、大筋で言えば他派は「セラピストは正しい」という前提を隠し持っている。「正しい発達段階」や「合理的/非合理的」という分類をセラピストは知っていてクライエントは知らない、と想定している。「そこがラカン派と違うところだ」というのがフィンクの主張だし、ラカン自身もソクラテス的な「無知の態度」を何度も強調している。セラピストはクライエントのことを何も知らない。だから知りたいと思う。ビオンの link-K とも通い合う態度。
これが日本に来ると、立木康介みたいな「私は知っている。あなたたちは知らない」という文体になるんだよなあ。ちゃんとフランスで勉強してきた?


先生はえらい (ちくまプリマー新書)
先生はえらい (ちくまプリマー新書)内田 樹

筑摩書房 2005-01
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あと、フィンクの要点は「知を想定された主体(Sujet Suppose a Savoir)」なんですけど、内田先生が書いてる「先生はえらい」のことです。特に、劉邦の軍師であった張良が「知」を獲得するエピソードが載ってますが、ここに出てくるやり取りが精神分析。というか「それまで知らなかったことに、いかにして人は気づくことができるか」という教育の根本を考察するのでないと、クライエントに「気づき」は生まれません。教育者が人格者である必要はないけれど、自分のしていることに自覚的であるべきです。それは心理療法家においても同じこと。

現象学ことはじめ

現象学ことはじめ 第2版
現象学ことはじめ 第2版山口一郎

日本評論社 2012-10-19
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久しぶりのブログ更新である。一年近く空いているが、何をしていたかといえば、フロイトの洗い直しである。フロイトが始めた精神分析は、イギリスに渡り対象関係論となり、アメリカに渡り自我心理学となった。どちらもその土地に受け入れられるように変形し、イギリス経験論との融合が見られる。イギリスの哲学は後天的要素を重視する。ジョン・ロックの亡霊に取り憑かれているからだ。それが母子関係の重視に繋がり、日本に入るとさらに「母親の育て方」という道徳になってしまう。しかしそれは、フロイト精神分析ではない。

フロイトの発想は、フロイトの単独の哲学ではない。必ず、同時代の思想家たちからの影響を受けている。真空で作られたわけではない。すると、当時のドイツでの心理学や哲学を調べ直さないと、フロイトが何を疑問に思い、誰に向けて言葉を連ねているか、不可解になるだろう。たとえば1923年の『自我とエス』は、同年にマルティン・ブーバーが上梓した『我と汝』を無視して論じても無駄である。なぜなら『我と汝』には「Ich und Es」についての考察があるからだ。同時代のユダヤ人の思想家が書いた文章をフロイトが読まなかったとでも言うのだろうか。それはないだろう。でも、アメリカに渡ったとき、そうした事実は考慮されずに Ego や Id という学術用語で「自我とエス」が語られる。いやいや、「我とソレ」なのだよ、これは。
そして、同時代人として無視できないユダヤ人に、エトムント・フッサールがいる。フロイトと同じウィーン大学で、同じブレンターノ教授に師事した哲学者。3歳下の、この後輩の動向をフロイトが知らなかったとは思えない。しかもブレンターノの「志向性」という概念は、フロイトが「リビドーの備給」と呼んでいるものだ。「表象」に関する考察も「欲動」に関する考察も、ブレンターノが道をつけ、フッサール現象学という体系に仕上げている。それがフロイトにとって他人事であったとは思えない。


そんなわけで、現象学の入門書です。どの本を読んでも、七面倒くさいばかりで全体がイメージしにくい。そんな中で、現象学が日常の感覚を描写するための哲学だということを噛み砕いてくれていたのが、この本。なんとか読めました。部分的に、たとえば中島義道分析哲学として批判してるところは、なんか自説の正統性を主張するために嘘をついている印象がするんですが、一般向けだとそんなデフォルメも必要なんでしょう。寛大な気持ちで、眉唾半分にして読み進めると、なかなか忠実にフッサールの思考を追いかけている本だと思いました。
ポイントは「受動的綜合」ですね。木村敏先生だと、フッサールの前期の「ノエシスノエマ」で止まってるんだけど(そのせいで、フロイトに繋がってこない)、山口先生は後期フッサールを中心に置いているので「間主観性」の考察に力点があります。「受動的綜合」とは、人が自分の体験を意識する以前にすでに体験をしているという事実。当たり前のことです。体験それ自体と、体験に対する意識とを分けて考える。この「体験それ自体」の考察が、まるで西田幾多郎のような世界になっています。というか、西田哲学の上位互換。西田哲学だと、赤ん坊の主客未分と、禅師たちの絶対矛盾的自他同一が同等のものかのように書かれているけれど、それだったら精神病に苦しむ人たちがいる理由が説明できない。主客未分が「悟り」になっちゃうから。でも、主客未分は苦しいよ。いろんな情動が自分の身体を貫いていって、内か外か分からない。そこあたり、フッサールは明確な区分をしています。
この「受動的綜合」がフロイトにおける「エス」なのだと見れば、受動的綜合から自我の立ち上がる様をフッサールが描写しているのも、まるで精神分析の論文のように見えてきます。というか、時代的にはフッサールのほうが先に言ってるから、ここあたりフロイトがパクってますね。フッサールの考えを援用しながら、それを治療に生かす道を考えている。
というわけで、フロイトの論文を読むには、現象学を知ってないと読み間違うだろうと断定していい。とても似てる。たぶん、互いに相手を意識して、自分の思想を深めて行っている。よきライバル関係にある。それを無視した心理学的な読解をフロイトにしてみてもハズレを引くだけ。それと、現象学では「普通のモノの見方」の成立は分かっても、神経症がなぜ人間にあるかは説明できない。たいていの人間は、多かれ少なかれ、神経症的な部分を抱えている。フロイトにとっては、そちらのほうが重大事です。現象学はそれには答えない。それで、精神分析は哲学とは異質なものに変容していくと思んだけど、それについてはまた機会のあるときに。