世阿弥の稽古哲学

世阿弥の稽古哲学
世阿弥の稽古哲学西平 直

東京大学出版会 2009-11
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友人に勧められて読んだが、結構楽しかった。世阿弥の伝書を解読する本。「人に何かを伝えるとはどういうことか」というテーマを、こんな昔の人が論理的に考察している。すごいね。「宗教」に落とさない。シャーマニズムと禅とが交叉する能楽の世界を切り開いた人が、これほどまでに冷徹な観察力を持っていたことに驚いてしまう。きっと父親の観阿弥に対して、世阿弥は「芸」がヘタだったんだな。身体がスッと動いて役に成り切るよりも、「役に成り切るとはどういうことか」って考え込んじゃうタイプ。二流だわ。そして努力家だったんだろうな。
西平先生も努力家かなあ。ヒラメキがない。少し風姿花伝を読んでみたら分かるけど、そこにはシテがいて客がいてワキがいる。この三者関係の力動を論じる本なのに、西平先生の考察には「ワキ」がいない。その視点が落ちてるわ。この時点で読み誤ってるよなあ。シテと客との二者関係で無文や有主風を論じてみても空振りだよ。そうではなく、その二者関係を見ている「ワキ」の存在。ワキは、たいていシテを育てる師匠だったり兄弟子だったりするからね。そこに、観阿弥のあと座長になった世阿弥の視点がある。シテを育成する教育者の視点がある。
だから「稽古哲学」ではなく、やっぱり「教育哲学」だろう。稽古は教わる側、教育は教える側。「教育」って言葉、良いよね。「教える」と「育てる」の二つの立場が入り混じりながら「エッジ」(世阿弥はこれを「堺」と呼んでる)を構成し、葛藤によって弁証法的なエネルギーを産み出している。そういう仕事だ。たとえば、「節」は区切られているが、「曲」は区切ることが出来ない。そんな「節」と「曲」の違いを延々考察する世阿弥は、「教えることのできるもの(節)」と「教えることのできないもの=育てるしかないもの(曲)」の差異を意識してるわけだ。「節」を意識化(用心)させることによって、その意識化を超えた地平で演じ手の個性(有主風)を育てていく。たとえば、どのスキル・トレーニングよりも先に老人の演技をさせることで、若い役者から「老い」を引き出す。実際の、身近にいる老人の模倣をさせたりしない。ただのモノマネから「老人らしさ」は出て来ない。「老人の本質を自分の言葉で掴め」と叱咤する。「私はソレを閑心遠目と呼ぶが、お前は何と呼ぶ?」と。
そう、「閑心遠目」が「我意分(役の本質)」ではないよ。本質を自分の一句で切り出すから「我意分」。そしてそれが「教育」なんだ。ね? だから「教育の我意分を言葉にせよ」。できないなら、辞めろ。