心理主義化する社会

心理主義化する社会 (シリーズ「社会臨床の視界」)
心理主義化する社会 (シリーズ「社会臨床の視界」)日本社会臨床学会

現代書館 2008-03
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アメリカで「学習障害」の概念がどう成立してきたか詳しいのはこの本かな。日本社会臨床学会ということで、初めから臨床心理学に敵意丸出しです(笑)。でも押さえているデータについては真摯に受けとめざるを得ない。
大筋としては、60年代の公民権運動が絡んでいます。アフロ・アメリカンの人たちが自分たちの人権を主張し、やっと公教育において白人と黒人の子どもたちが、同じ学校の同じ教室において授業を受けることが出来るようになった。すると、白人の富裕層は自分たちの子どもを公立学校に通わせず、私立の小学校や中学校を受験させるようになる。露骨なほどに。笑えますね。
ところが知的障害を持つ子どもたちには、こうした「逃げ道」が使えない。公立学校で「有色人種」とともに障害児学級に通級することになる。そのとき保護者たちから「うちの子は知的障害ではない。学習障害児なのだ」という声が挙がります。公立学校の中に、知的障害児学級と学習障害児学級とが併設される。そして、肌の色が黒ければ知的障害(そのころは、もっと差別的な名称が使われてますが)、肌が白ければ学習障害という「棲み分け」が進む。そのときの大義名分が「学習障害は、学習の指導法をその子どもに合わせアレンジすれば、その障害を克服できるから」でした。行われる授業方法が違うのだから、教室を分けるのは必然である、と。
そういうわけで10年ほどやってみるけれど、授業方法を変えてみたところで、それほど望ましい効果は挙がらない。そこで保護者から訴訟が起こり、それに対し教育行政側が「学習障害は器質性の障害」という主張をし、以下、現代へと続いてます。もちろん研究が進むにつれ、カモフラージュの「学習障害」ではなく、本来の意味での「学習障害」を識別できるようになった「利点」はあります。まあ、いくら練習しても歌が下手な人がいるから、それが「生まれつき」の要因に左右されているとしても不思議ではありません。
でもそれを「音楽学習障害」と診断することは、また別のこと。学校の授業で習う「学科」に応じて「学習障害」が定義付けられている。それは「学校」という状況がなければ生じない。とても「政治的」なことです。


字を書いたり計算したりすることが、人間において重要視されるようになったのは「近代」に入ってからでしょうし、それもこの数十年でしょう。なぜならそれは「会社に就職して働く」という労働観が確立してからでしか、有り得ない。第一次産業が中心の社会では、学習障害を「障害」とする有用性が無い。「サラリーマンになるしかない社会」だから大騒ぎになる。「学校」が「サラリーマン養成所」となり、子どもたちはプチ・デスクワークに明け暮れる。この社会構造が「学習障害」への閾値低下を引き起こしてるんじゃないかな。